少年がとぼとぼと歩いていた。
公園にたどりついた。そこはちいさな池を中心に周囲に小径があり、ベンチには恋人たちが語り合っていた。池には釣りをしている老人がひとりぽつんといた。
老人はしだれ柳のかげでふなを釣っていた。濃い灰色のクロシェ帽をかぶり、太っていた。サスペンダーでぶかぶかのズボンをつるし、白い綿のシャツの腕をまくっていた。
少年はその様子を、ポケットに両手をつっこんでベンチに腰かけて見ていた。ちいさなふなが一匹釣れた。少年は胸ポケットから煙草をとりだすと、ふかしはじめた。
池は深く、静かだった。
向こう岸にはアヒルが二匹、つがいなのだろうか、およいでいる。空は鉛色で、そうかといって雨が降りそうな案配でもなかった。
少年は深く煙を吸い込むとおおきくはきだした。
どうして、内の家はこんなに両親が不仲なのだろう。まいにち顔をつき合わせると喧嘩ばかりしている。
「この、くされ淫売」
「なによ、このへっぽこ野郎。悔しかったら、もっとかせいできやがれ」
「なんだと、このあま!」
父の怒鳴り声の後、皿の割れる音がして、母の泣く声がする。
どうして、こう嫌なことばかり起きるのだろう。平穏な日々がなぜ続かないのだろう、と、少年は思い煩った。それというのも、父親が定職に就いていないからだ。収入が不安定なことが、母の機嫌をそこね、喧嘩に発展する。その度に皿が一枚づつ減っていく。世の中、全ての人が平和に暮らせるように、政治家にはもっとがんばってもらわなければならない。安定した仕事と収入があるように完璧な社会を作ってもらいたい。いや、これはあまりにも他人まかせの考え方かもしれないな。少年はそう思い返した。しかし、毎日の両親の喧嘩に立ち会うことは憂うつでしかたがない。なんとか早く自分の道をみつけ、親元から独立するしかない。
少年は煙草を「じゅーっ」とつまんでいる指の先まですいこんだ。
となりのベンチの恋人たちは肩を寄せ合い、幸せそうである。彼らには将来あるかもしれない、お互いの裏切り以外の疑いや悩みはないのだろう。アヒルが、があ、があと大きな声でないた。少年は煙草を池に投げ捨てた。
「こらー」
アヒルの声よりも大きな声で人が怒鳴り声をあげた。釣りをしていた老人だった。恋人たち「はっ」と手を口のところにもっていった。
「だれだ! 魚がにげるではないか」
老人はいきりたって、しわがれた声をはりあげた。果たしてその声で、魚たちは餌に食いつくのを見合わせたであろう。
「おまえか! ちょっと来い」
老人は少年を呼びつけた。少年はそのまま走り去ってしまおうかと思ったが、素直にしたがい、老人のところまで降りていった。
「座れ」
意外にも老人はそう言ったきりで、釣りを再開した。びくの中には数匹のふなが泳いでいた。老人は慣れた手つきでみみずを針につけた。
「魚を釣るにはタナを見つけなくてはいかん」
老人はふな釣りのコツをあれこれと説明した。しばらくだまって釣っていたが、老人がおもむろに言った。
「おまえは、なにを悩んでおる」
少年は心を見透かされたようで、大きく目を開いた。
「陰鬱な顔をしておる」
「ええ・・・」
少年ははじめて会ったひとに、家庭の事情をはなすのはどうかと気が引けたが、他にだれに相談できるわけでもなし、なにかしらのヒントがあればもうけものだと考えて、この数年のことをつつみかくさずにはなした。
老人はだまってきいていた。
ウキがひいた。
老人がタイミングを合わせて竿をあげた。水面下ではその力に抵抗するものが糸をひっぱっている。竿は左右になんどか動き、とうとう力つきた魚が顔を見せた。
老人はふなを左手でつかまえ、右手で釣り針をぬいた。釣り針にはふやけて半分になったみみずがついていた。老人はふなをびくにそっと入れると、新しいみみずを釣り針につけた。
ーーぽちゃん
老人は釣り糸をふたたび池に放り投げた。
池は魚との格闘のあとに穏やかになり、静寂していた。
そこに、一匹の虫が落ちた。
ハチだか、アブだか、ハナムグリだか判別ができない距離にその虫は落ちた。ときどき虫は吸い込まれるように水に落ちる。老人はその虫をじっと見ていた。少年もじっと見た。虫は水面に浮いていた。
「あいつは、そのうちおぼれて死ぬか、魚に見つかって食われちまうだろう」
虫は、もぞもぞとあしを動かしていたが、この大きな自然の造形物の器からはよほどの奇跡が起こらないかぎり抜け出せないように思えた。なぜなら池の水は、しごく安定していて、水は自分の意志では動かないからだ。きっとこのままおぼれ死んでしまうにちがいないと、少年はあきらめた。
「もし、この池になんの変化もおきなければ、やつは物理の法則に従っておぼれて死ぬか、食われるかしてしまうな」
老人は同じ言葉を繰り返していった。そして続けた。
「ところが、枯れ葉が落ちてきて助け船になるかもしれん。風が吹いて岸に打ち上げられるかもしれん。遠くで魚がはねた波紋で、空き缶にたどりつけるかもしれん」
少年はもがいている虫を見つめながら聞いていた。老人は優しい声でさらに言った。
「そういった変化は誰かにとっては都合の悪いことかもしれんな。たとえば、池をそうじする人にしてみれば、枯れ葉や空き缶などないほうがいいし、風もチリをまきちらして目に入るかもしれん。交尾をするとんぼの目測を誤らせるやもしれん」
少年は老人のいわんとすることがなんとなく飲み込めてきた。
「しかし、人のしれんところで一匹の虫の命を救っているかもしれんのじゃ」
少年は、虫にとって有益な変化が起きることを期待した。
「変化のない安定した世の中は、池におちて死のうとしている虫の命を救うチャンスを生じさせないんじゃな」
自分におきている不安定なことは、自分が助かる変化なのだろうか。自分はなにから助かろうとしているのだろうか。むしろいまの不安定で激烈な生活から抜け出したいと思っているのではないか。
少年は立ち上がり、老人の傍を離れた。そして歩きながら、老人の言葉をなんどもなんども繰り返して思いをめぐらせた。
もし、平和な家庭でなに不自由ない暮らしをしていたら、自分はどうなってしまうのだろう。自分のやるべきことも見つけられずに、水面を漂って、そのうち平和の中におぼれてしまうか、詐欺にでもあってしまうのだろうか。
「家庭の不和は自分が自分の道を見つける動揺で、動揺があるから心にスキマができる。スキマができるから見つめ直す余地になる」
この最後の言葉を老人は言わなかった。しかし、少年は家に帰るみちすがら、老人がそう言いたかったのではないかと思い当たった。
少年が振り返ると、遠くに相変わらず釣りをしている老人の姿がまじかに見えた。
(April.02.2000)
