白い日

涼子の恋人は無名の画家でした。
まいにちアトリエでキャンバスに向かっています。

今朝は、白い日でした。

夕方になって仕事を終えた涼子がはいってくると、
「どうだい、この構図」
待ちかまえたように、彼は顔をほころばせて得意げに言うのです。「いかすだろう。この絵は久々にうまく描けたよ」
涼子は黙ってにっこりしました。本当によく描けていました。だんだんいい絵が描けるようになりました。そのことに涼子は喜びを感じました。彼の成長をまのあたりにしていくのが、彼女にとっては生き甲斐だったからです。
「どれ、ひといき入れようか」
恋人はそういうと、絵の具のついた軍手を脱ぎ、珈琲をいれてくれました。アトリエの西側にある窓からは、外の落ち葉が見えました。その黄葉した秋の枯れ葉の向こうで太陽が沈もうとしていました。
「私はね、涼子、沈黙を描くんだ」
硝子に反射する光を瞳にうけて青年は言いました。芸術を志す醒めた意気込み以外、彼にはありません。そこに邪気の入り込むすき間は毛ひとつほどもありません。一心不乱とはこのことをいうのだ。涼子にはそう思えました。
絵を書き始める前の苦悩に満ちた彼の顔は、不思議と絵を描いている最中にほぐれ、まるであどけない少年のように紅潮してくるのです。その顔を見ることができるのは私しかいない、涼子が彼といるもう一つの理由でした。
しかし涼子には一抹の不安があるのでした。彼との生活費を実家から、もういくらも借りていたからです。
「涼子、私が育てたおまえが選んだ男なら、間違いないよ。もし、その人に窮地が訪れたのなら、これを使いなさい」
母はそう言って、一冊の通帳をくれたのでした。しかしそのことを彼は知りません。その金も底をつきはじめました。これ以上、実家に迷惑をかけるわけにもいかないのです。母はなにも口出しをしてきません。そのことがかえって涼子を不安にもさせました。
「彼はきっと画家として認められる」
涼子にはそういう信念がありました。私が助けてやれることは、彼の絵を誰よりも理解してあげることだ、と涼子は思っていました。涼子は街で絵画展があるときは必ず出かけ、自分の選美眼を養うことにつとめました。
「どうだね、彼はいけそうかね」
実家の父親がなにかの話しの拍子に、そうたずねたときにも涼子はなんの疑いもなく、こう答えました。
「大丈夫。心配しないで」
「彼の芽が出るまで、おまえは辛抱できるか」父親はすこし強い口調で言いました。「いざというときには、生活費を稼ぐ覚悟があるのか」
涼子は静かに答えました。
「生活費を稼ごうとは思わない。彼の芽がでるまでの辛抱だなんて思わない」目をつぶりました。「大事なことは彼と人生を共に過ごすこと。特定の結果を待つ人生ではなく、一緒にいる時間を充実させること・・・」涼子は単語を選びながら言葉を重ねていきました。「彼と共に自分たちの望む絵が完成していく様を喜び合うこと」涼子は目を開けました。「彼を金銭的に助けてあげているだなんて、卑しい憐れみは抱かない。もし働くとしても、私は自分の人間としての成長のために働く」
「そう甘くもないぞ」
父親は釘をさしました。
「厳しさを教えようとしている人が、もっとも厳しい」
涼子はそう思うのですが、言いませんでした。かわりにこう答えました。
「魂の赴くままに生きます」

アトリエで一緒に絵を眺めながら恋人は嬉しそうに涼子に言いました。
「どうだい、この色、素敵だろう」
世間から見れば、絵のこと以外なにも考えていないように見える彼が、正面から物事を見つめていることを涼子は知っていました。

ーー白いキャンパスは、人を感動させる美を表現するの無限の可能性と、ただの紙屑になる可能性をもっている

彼のこの言葉が、人生のすべてを物語っていると涼子には思えました。
「ここになにも描かなければ、どちらにしろ可能性のまま終わってしまう。私は白いキャンパスに生命を与え、見る人の中にある生命を呼び覚ますんだ」
彼の言葉が、絵から聴こえてきそうでした。
白い日。
なにも色を塗られていない白いキャンバスをおろす朝、そこにはこんどこそいい絵が描けるという希望と、またあらたな絵が描けるという喜びとがつまった日なのです。


                         (March.14. 2000)