ヘマをしてしばらく寝たきりになってしまったので、久しぶりにブログを更新。


熊野本宮大社で、毎年お正月1月1日午前2時より催行される開寅祭(あけとらさい)に、ご縁があり参列させていただきました。

上記は熊野本宮大社ホームページより引用。
1年のうちこの開寅祭の2時間だけ、本殿の各扉が開放されます。
ネットで調べてもこれ以上の情報は乏しく。
ちょうど今年のお正月は熊野に行く用事があり、参列させていただくことになりました。

前日、大晦日の日中は吉野を巡り、役小角にご挨拶した後、十津川の玉置神社で年越大祓に参列。




熊野本宮大社に着く頃には、日もとっぷりと暮れ。
大晦日のこの時間、鳥居は閉ざされ、人影もまばらでした。
意外でしたが、午後5時からの除夜祭が終わると、6時で一旦閉められ、新年と共に開門されるのだとのこと。

夕食でも取ろうと散策するも、店はどこも閉まり、国道沿いに並ぶ初詣客向けの屋台は営業前。
この日は、道中の“道の駅 十津川郷”が年末のため休業で、ランチを取り損ねており。
クルマに戻り、コッヘルでお湯を沸かして、どん兵衛 西仕立てで年越し蕎麦。
こんな年越しも悪くはないかも。

頃合いを見て神社に向かうと、すでに鳥居は開門され、長い石段に行列が。

出遅れてしまいましたが、年明けと共に神殿エリアが開門され、すぐに列が動き始め、ぞろぞろと初詣。
この門から先の神殿エリアは撮影禁止です。

30分もすると人波も引き、ひっそりする境内。


限定の金の八咫烏みくじを引いたり、大鳥居のライトアップと満天の星を見に行ったり。



そして午前2時。
いよいよ開寅祭。
本殿前、御垣内への扉が開かれ、純白の幕が張られています。
一般参拝客はこの白幕越しに拝むことになりますが、参列者は九鬼家隆宮司に続き御垣内への入域を許されます。貴重な体験。
※九鬼宮司の「鬼」は本来頭に点がなく、鬼の角を抜いて神になったとのいわれから、九鬼は「くかみ」の姓で授かったとのこと。
頭に点なしの鬼の文字がないため、ここでは鬼と記載させていただきます。

※撮影禁止のため、上記熊野本宮大社ホームページより引用。

九鬼宮司はまず、熊野本宮大社の主祭神であるスサノオの①證誠殿の扉を開け、お一人で中に入られ、参籠されます。
この證誠殿は、奈良時代、一遍上人が参籠し、神託を受け、踊り念仏の“時宗”を開基したお社です。

次いで、スサノオの母イザナミの③西御前、次にイザナギの②中御前、最後に姉アマテラスの④東御前と順に参籠。
われわれ参列者は、私語と移動禁止で、足下の不安定な玉砂利の上に立ち、九鬼宮司の神事を見守ること小一時間。

参籠を終えられた九鬼宮司より、お言葉をいただきます。

スサノオは、とても穏やかな柔和なお顔をされていました、とのこと。
一方、姉のアマテラスの顔は厳しく強張り、九鬼宮司は今回唯一御神体に触れ、抱き支えられたのだそうです。

開寅祭は、この国にとって極めて重要な神事であることを伺わせるお言葉でした。
諏訪大社では筒粥神事で一年が占われますが、熊野本宮大社ではより直截的、原始的なかたちで神託が降ろされ、居合わせた参列者にのみ伝えられるという秘儀が、連綿と続けられていたようです。
今年の神託の意の解釈は私にはできませんが、ここに書き留めておきます。

熊野本宮大社の主祭神スサノオは母神イザナミとの結びつきが強く、かつては證誠殿にイザナミが祀られていた時代もあったとのこと。
また證誠殿の屋根の千木は内削ぎで、これは女神を祀ることを意味するそうです。

また、九鬼宮司はイザナミを祀る花の窟の重要性を語られ、コラボ御朱印を作られたとのこと。
※もちろん戴いてきましたよ。


熊野本宮大社の例大祭で神輿の渡御に際して「有馬窟の歌」「花の窟の歌」が歌われるように、本宮大社と花の窟はその深い結びつきが祭の風習としても残されています。

九鬼宮司の熊野への想い、お考えは「熊野 神と仏」という本に詳しく。
吉野 金峯山寺の田中利典執行長(現・長臈)と熊野本宮大社 九鬼家隆宮司がコラボするという画期的な内容です。


※お二人の講話を伺うイベントが以前東京であり、サインを戴いておりました。
今回の旅は、奇しくもこの本をなぞらえています。

収録された鼎談では様々なことが語られているのですが、玉置神社を語る一節があり。



お二人とも厳しい言われ方をしていますが、「奥の院」については個人的に同感でした。このあたりの考察はまた別の機会にでも。
※上記引用の続きを読まれたい方は、ぜひこの本をご購入ください。

開寅祭が終わると、その場で散開。
深夜4時、寅の刻。
この日は宿を取っていないので寒空の中、車中泊。
ハードな旅となりましたが、思いがけず、極めて貴重な神事に参加させていただくこととなりました。