Diary. 2013. November 25, 2013. Monday.
日記。2013年。11月25日。月曜日。
●"The Kaesong Industrial Complex is gradually recovering to previous levels," 開城工業公団はどうやら事件前前の水準まで回復しつつあるそうだ。
イラン核開発のスッタモンダもどうやら治まるらしい。ケリイ首相も苦労する。
昨日、a nuclear accord was signed between the P5+1 countries and Iran in Geneva, Switzerland. It consists of a short-term freeze of portions of Iran's nuclear program in exchange for decreased economic sanctions on Iran. as the countries work towards a long-term agreement
● 僕のコムラカエリはほぼ治まった。米国風電気乾燥ユタンポと日本製漢方塗り薬のおかげ。(両方ともチャックが見つけてくれた。)
この書き込みは、今EST(米国東海岸時間)午前3時53分。日本時間15時53分。
夜が明けたら、今日は月曜日のジャイアント超級市場買出し。僕たちの老人生活もやっと平常化しだしている。ありがたい。
● 日本自衛隊の国際緊急援助隊の本隊が25日、台風30号で大きな被害を受けたフィリピン・レイテ島タクロバン市での本格的な活動を開始した。 ありがたい消息。
●以下を発見。読みながら記憶に耽った。
★ 東京の進也から。 (再録)
(土曜日は)雨の予報だったが木更津に行ってきた。着いた時から降り出し、ひどくなりそうだったので急いで帰宅した。変わりはないが、僕の来たことはわかったみたい。(夫人が認識症でこの十数年入院中。)
日曜にわざわざ行ったのは、今週の日程がきついからだ。明日は図書新聞の仕事で、同時に大連会報の校正を戻す約束だ。火曜は歯医者に行くことと、その後に出版退職者懇談会の総会。夜には懇親会もある。水曜には図書新聞の校了と、午後2時からの大連会理事会。このへんで会報は校了にしなくてはならない。それがすめば一息つける。つまり、木曜以後はね。
渋谷さんの宿題で、浅田次郎を読むことにし、『中原の虹』第1巻を買ってきた。導入部はなかなか快調だ。全4巻。順に買い、読んだら君に送る。
今日の木更津往復には、川野大太郎さんからの宿題、田村洋三『沖縄の島守』(中公文庫)を半分ほど読んだ。1945年2月、米軍進攻必至の時に知事として赴任、戦争で死んだ官僚、島田叡の伝記。
今になると戦争では人間の本質が出るようだ。沖縄の知事はなり手がなく、理屈をつけて逃げ出すやからもいた。貧乏くじなのだ。そりゃそうだ、命あってのものだねみたいなところがある。あえて貧乏くじを引いた男の話。進也、18時
★ Thomasから。
月曜日、午前9時に日本の赤松君と電話ではなした。
そしたら、今吉君の話が浮上した。
今吉恒雄君のこと。(再録)2013年。11月25。
1944年、中学3年の時に、今吉恒雄君が内地から転向して来た。父上が関東州の州長官に任命されて赴任してきたからだ。今吉君の父上は県知事のような存在だったと思う。進也の沖縄の島守についての話を読んで、今吉長官のことを思い出した。
太平洋戦争中、勿論僕は思想問題で腕白級友たちからは仲間はずれになっていたし、伏見台のカトリック教会に逃げ込んで淋しい毎日を送っていた。そんな折に関東州長官の息子がクラスに転入してきたわけだ。
その時は友人関係がもう既に固定してしまっていて、3年生クラス仲間に今吉君が這入り込むのは容易ではなかったと思う。どのような背景が彼のご一家にあったか、僕は今でも知らない。今吉恒雄君は品格、知性、善良さを備えた日本人少年だった。父上の名前は今西敏雄だった。
それで、もう一人7回生クラスからツベルクローゼ陽転で8回生に組入れられた少年と、僕たち三人は「孤独相憐れむ」ってわけで、とても仲良くなった。
六十年以上過ぎた今になっては、7回生だったその友人の名前が残念ながら思い出せない。小村公園を電車路の向こう側に隔てた連鎖街のアパート二階に彼は義母と住んでいたの覚えてはいるが。彼の背景も複雑だった。
暇をみつけては、僕は今吉君を数回星が浦の長官官舎に彼を訪れた。玄関から入ると目前に噴水があり、右側に広い会議室があったのを覚えてもいる。室内の調度品もみごとだった。屋根瓦が素晴らしい青色だったし、今吉君にはたしか弟妹が居た。
僕たち三人は奇妙なCombinationだったと思う。関東州州知事の息子が太平洋戦争中に(内心反戦的)朝鮮人少年の僕と親友だったのだから。
卒業式後、僕たちは散り散りばらばらになった。アメリカに来てから、今吉君の父上はシベリアにソ連軍により連行されたことを日本からの新聞で読んだ。おそらく朝日新聞だったと思う。
大連中学名簿(1970年版)を探したら、彼は住所不明になっている。連絡がとれないのがとても残念だ。時々、今吉恒雄君はどうなったかしらと考え込む。恐らく一生もう会えないだろう。
★妙な四、五年間だった。あの戦争末期は。