殆ど誰でも知ってるイタリアの水の都ヴェニスの東にトリエステという港がある。
このあたりは、イタリアと昔のユーゴスラヴィアとの国境地帯だし、(僕が子供の時には)北のオーストロ・ハンガリア帝国の統治下から離れて「独立した」ばかりで、そのころ英米権益の国際干渉と国際管理下にあった古い、古い港だ。
数日前に須賀敦子全集の巻2を読んだ。今まで知らなかった作家だ。恩師シッファー先生が教えていた上智大学の比較文学部教授で僕と同じ歳らしい、1929年生まれ。
この町、トリエステは、先史時代から中部欧州と地中海沿岸の諸地方を結ぶ交通の要所だった。というのも、紀元前2000年すでに、バルトく海沿岸の琥珀をギリシャやエトルスクの諸都市に運ぶ、「琥珀の道」と呼ばれた商業路のひとつがトリエステを通過していたと言われる。
中世以来、オーストリア領となり、さらにハンガリアも加わって、地中海に面した帝国の軍港として栄え、18世紀から19・20世紀にかけては商港として繁栄の頂点を極めた。”
その歴史を継いだユーゴスラヴィアも、現在ではスロヴェニアとクロアチアがそれぞれ分かれて独立してしまってる。スロヴェニアの首都はリュブリアナ。さらに、リュブリアナから南に直線的に下がるともう一つの港、リイェカがある。
オーストリア・ハンガリア帝国時代の(日本明治時代)には帝国首都ウイーンからリューブリアナ、トリエステとリエァカを結ぶ(漢字の)「人」状道路は輸出入品の運送路として栄えたものだった。(下掲地図参照。)
Veniceヴェニスが上掲地図の左上に見える。少し離れて東部(右)にTriestetp、Istria イストリア半島を挟むように Rieka リエカ (イタリア名: Fiume フィウメ)が横たわる。
大正から昭和一桁期にかけて、僕の少年時代には、アイルランドとポーランドのビアリストクとこのトリエステ・フィウメ地帯の三つが、朝鮮民族がキチガイになったように関心を抱いた地区だった。
1919年の朝鮮独立宣言運動と平行してたから。
ウイルソン大統領が宣言した民族独立の法則に平行して国際的に列強がトリエステやフィウメ(=リエカ)の帰趨に干渉したから。
フィラデルフィアには、チャックと僕が仲良くしているイストリア半島出身の友人が数多居る。
ほとんどが、イストリアから追い出されて移民した人たちの末裔三世、四世だ。
ヴェネチア帝国が盛んだった古代からムソリーニ・ファシスト政権にかけてのイタリア史上、アドリア海を挟んで対峙するダルマチアやイストリアはイタリア植民の垂涎対象だった。アドリア海の「内海化」復帰の夢だ。何処の海岸国にもそのような内海化占領の夢は浮上する。現に露西亜の「北方領土」占領はオホーツク海内海化独占の固執でなくては何だろうか?
あのころ、僕はまだ小学生の子供で、切手蒐集に血煙をあげていた。大連の幾久屋デパートの傍らに小さな本屋があって、欧州伝来の切手を売っていた。
時折、電車に乗っては、僕はその本屋を訪れた。そこで、フィウメ発行の三角切手を見つけ、飛びついて、なけなしの小遣いをはたいて一枚買って戻った。あの時の嬉しさを未だに僕は思い出す。
そのころ、満洲大連でそのような三角切手がこの世界にあるなんて思ってもいなかったから。
太平洋戦争が終わり、大連を脱出した時、僕はあの Stamp Collection Albumを失くしてしまった。 この記事に掲載する 切手写真はインタネットで見つけたものだ。だが、フィウメのこの三角切手を未だに覚えている。
僕は勝手にフィウメを フユウメ 「冬梅」と呼び換えて覚えた。小学校五年生だったと思う。そして、上記の須賀敦子書を読みながら冬梅三角切手を思い出した。ほぼ七十年の星霜を経たあとでだ。
ところで、上掲のFIUMEとオマケ印がおしてある切手風景は、アドリア海風景じゃなくて、ブダペストなんだろう。
Magyar Kir Posta マジャール郵便と印刷してある。オーストロ・ハンガリア帝国当時の郵便切手なんだろう。
頻繁に国境が変わり、民族紛争で殺しあう欧州諸国では、このような変遷が日常茶飯事だ。
フィウメはやがて、クロアチア所有に帰した。
その南に 大分大きな Krk クルク島があり、さらにその南に Rab ラブ島がある。 この地帯は瀬戸内海を思わせる風光明媚さだ。
現在では、リエカ冬梅で自動車を借り、南下して、クルク島への橋を渡り、KRK町 を通り過ぎて島の南端バスカ港で乗り捨てて、Rab ラブ島への渡し舟に乗る。
ラブ島はそんなに離れていない。渡し舟でつくラブ島の港が Lopar ロパルだ。
さて、いつもの通りの我田引水で申し訳ないが、この美しい環境にも「嗚呼、満蒙開拓団」の話に似た悲劇が、第二次大戦中に平行して起きた。勿論太平洋とは全然関係がない地中海での話しだ。
第二次大戦中、ムッソリーニが率いるイタリア・ファシスト軍はアドリア海対岸のダルマチアやスロヴェニア西部を侵略して、イタリア軍に従軍して戦死した遺家族を植民した。所謂開拓団だ。勿論原住民は処分しなければならなかった。
現地住民パルチザンの猛烈な反乱に直面した。その反乱の指導者がチトーだった。
ちなみに、このような反乱を現今の英米先進文明国で流通する英語ではInsurgencyと呼ぶ。
あのころ、反乱民衆平定の対策が原住民追放・隔離と「開拓団入植」のおきまりだった。ナチス・ドイツの原住民処理はもって理知的、科学的だったと言えよう。ヒトラーは虐殺工場を設置して、ガスで大量を殺して、死体を焼いた。
ムッソリーニにはそんな資力も、叡智もなかった。ただ、反抗する民衆を離れ島のラーゲルに連行して、隔離するのが関の山だった。集団部落形成も不満足な手段でもある。
この風光明媚なラブ島にもそのような鉄条網が囲む集団部落が設置された。
この島に投獄されたスロヴェニア系、クロアチア系の原住民は1942年7月から1942年11月27日数ヶ月にかけて、最高1万5千名の庶民が収容され、2000名が餓死したそうだ。
所謂終戦後、イタリア系植民たちが南スラヴ系住民の復讐に晒されたのは想像に難くはない。
★ Davide Rodogno. Il nuovo ordine mediterraneo.
(Turin: Bollati Boringhieri.2003)
このあたりは、イタリアと昔のユーゴスラヴィアとの国境地帯だし、(僕が子供の時には)北のオーストロ・ハンガリア帝国の統治下から離れて「独立した」ばかりで、そのころ英米権益の国際干渉と国際管理下にあった古い、古い港だ。
数日前に須賀敦子全集の巻2を読んだ。今まで知らなかった作家だ。恩師シッファー先生が教えていた上智大学の比較文学部教授で僕と同じ歳らしい、1929年生まれ。
この町、トリエステは、先史時代から中部欧州と地中海沿岸の諸地方を結ぶ交通の要所だった。というのも、紀元前2000年すでに、バルトく海沿岸の琥珀をギリシャやエトルスクの諸都市に運ぶ、「琥珀の道」と呼ばれた商業路のひとつがトリエステを通過していたと言われる。
中世以来、オーストリア領となり、さらにハンガリアも加わって、地中海に面した帝国の軍港として栄え、18世紀から19・20世紀にかけては商港として繁栄の頂点を極めた。”
その歴史を継いだユーゴスラヴィアも、現在ではスロヴェニアとクロアチアがそれぞれ分かれて独立してしまってる。スロヴェニアの首都はリュブリアナ。さらに、リュブリアナから南に直線的に下がるともう一つの港、リイェカがある。
オーストリア・ハンガリア帝国時代の(日本明治時代)には帝国首都ウイーンからリューブリアナ、トリエステとリエァカを結ぶ(漢字の)「人」状道路は輸出入品の運送路として栄えたものだった。(下掲地図参照。)
Veniceヴェニスが上掲地図の左上に見える。少し離れて東部(右)にTriestetp、Istria イストリア半島を挟むように Rieka リエカ (イタリア名: Fiume フィウメ)が横たわる。
大正から昭和一桁期にかけて、僕の少年時代には、アイルランドとポーランドのビアリストクとこのトリエステ・フィウメ地帯の三つが、朝鮮民族がキチガイになったように関心を抱いた地区だった。
1919年の朝鮮独立宣言運動と平行してたから。
ウイルソン大統領が宣言した民族独立の法則に平行して国際的に列強がトリエステやフィウメ(=リエカ)の帰趨に干渉したから。
フィラデルフィアには、チャックと僕が仲良くしているイストリア半島出身の友人が数多居る。
ほとんどが、イストリアから追い出されて移民した人たちの末裔三世、四世だ。
ヴェネチア帝国が盛んだった古代からムソリーニ・ファシスト政権にかけてのイタリア史上、アドリア海を挟んで対峙するダルマチアやイストリアはイタリア植民の垂涎対象だった。アドリア海の「内海化」復帰の夢だ。何処の海岸国にもそのような内海化占領の夢は浮上する。現に露西亜の「北方領土」占領はオホーツク海内海化独占の固執でなくては何だろうか?
あのころ、僕はまだ小学生の子供で、切手蒐集に血煙をあげていた。大連の幾久屋デパートの傍らに小さな本屋があって、欧州伝来の切手を売っていた。
時折、電車に乗っては、僕はその本屋を訪れた。そこで、フィウメ発行の三角切手を見つけ、飛びついて、なけなしの小遣いをはたいて一枚買って戻った。あの時の嬉しさを未だに僕は思い出す。
そのころ、満洲大連でそのような三角切手がこの世界にあるなんて思ってもいなかったから。
太平洋戦争が終わり、大連を脱出した時、僕はあの Stamp Collection Albumを失くしてしまった。 この記事に掲載する 切手写真はインタネットで見つけたものだ。だが、フィウメのこの三角切手を未だに覚えている。
僕は勝手にフィウメを フユウメ 「冬梅」と呼び換えて覚えた。小学校五年生だったと思う。そして、上記の須賀敦子書を読みながら冬梅三角切手を思い出した。ほぼ七十年の星霜を経たあとでだ。
ところで、上掲のFIUMEとオマケ印がおしてある切手風景は、アドリア海風景じゃなくて、ブダペストなんだろう。
Magyar Kir Posta マジャール郵便と印刷してある。オーストロ・ハンガリア帝国当時の郵便切手なんだろう。
頻繁に国境が変わり、民族紛争で殺しあう欧州諸国では、このような変遷が日常茶飯事だ。
フィウメはやがて、クロアチア所有に帰した。
その南に 大分大きな Krk クルク島があり、さらにその南に Rab ラブ島がある。 この地帯は瀬戸内海を思わせる風光明媚さだ。
現在では、リエカ冬梅で自動車を借り、南下して、クルク島への橋を渡り、KRK町 を通り過ぎて島の南端バスカ港で乗り捨てて、Rab ラブ島への渡し舟に乗る。
ラブ島はそんなに離れていない。渡し舟でつくラブ島の港が Lopar ロパルだ。
さて、いつもの通りの我田引水で申し訳ないが、この美しい環境にも「嗚呼、満蒙開拓団」の話に似た悲劇が、第二次大戦中に平行して起きた。勿論太平洋とは全然関係がない地中海での話しだ。
第二次大戦中、ムッソリーニが率いるイタリア・ファシスト軍はアドリア海対岸のダルマチアやスロヴェニア西部を侵略して、イタリア軍に従軍して戦死した遺家族を植民した。所謂開拓団だ。勿論原住民は処分しなければならなかった。
現地住民パルチザンの猛烈な反乱に直面した。その反乱の指導者がチトーだった。
ちなみに、このような反乱を現今の英米先進文明国で流通する英語ではInsurgencyと呼ぶ。
あのころ、反乱民衆平定の対策が原住民追放・隔離と「開拓団入植」のおきまりだった。ナチス・ドイツの原住民処理はもって理知的、科学的だったと言えよう。ヒトラーは虐殺工場を設置して、ガスで大量を殺して、死体を焼いた。
ムッソリーニにはそんな資力も、叡智もなかった。ただ、反抗する民衆を離れ島のラーゲルに連行して、隔離するのが関の山だった。集団部落形成も不満足な手段でもある。
この風光明媚なラブ島にもそのような鉄条網が囲む集団部落が設置された。
この島に投獄されたスロヴェニア系、クロアチア系の原住民は1942年7月から1942年11月27日数ヶ月にかけて、最高1万5千名の庶民が収容され、2000名が餓死したそうだ。
所謂終戦後、イタリア系植民たちが南スラヴ系住民の復讐に晒されたのは想像に難くはない。
★ Davide Rodogno. Il nuovo ordine mediterraneo.
(Turin: Bollati Boringhieri.2003)