日産自動車のダットサンがカリフォルニアに上陸したのはほぼ1970年あたりだった。

あの頃、米国人は「なんだ、日本車か?」とやすかろう・わるかろうの印象よろしくせせら笑ったものだ。

デトロイトはアメリカ主要産業である自動車工業地帯の中心だったから(白人)労働階級の威力は歴然としていた。労働組合の権力も相当なものだった。親子代々自動車工場で働いてきたという連中だって珍しくもなかった。

労働階級の連中には、大學の学問なんて必要ないさ、俺たちは腕で食っていけるんだというような気概まであったし、労働組合の労働規制なり規則なりをよく守った。極端に守りすぎるという傾向もよくあるようだった。組合の権利が先で、会社の利益は別問題だったようだ。

ラファイェット塔



下掲地図はデトロイト中心部の地図。西北(Grand River Avenue)と東北(Gratiot Avenue)から高速道路が流れ込んできて、大通り(Woodward Avenue)と デトロイト河にそって東西に走るJefferson Avenue Avenue に集中交差する場所が都心中心だった。前号記事に載せた僕たちのむアパートは地図にある#375道路標識上に存在し、GratiotとJeffersonが囲む白人三角地帯新開区域がラファイェット公園だった。

(あの1967年暴動註に放火と略奪があった地帯は灰色に塗られている、その地帯はおおむね黒人居住区だった。銃撃戦闘が起きた3区域には赤丸がついている。)

1967デトロイト都心地図


僕が赴任して、科学技術応用センターで働きだしたころ、中心大通りWoodward路に沿って白人商店がまだ都心から北に向って存在していたが、消えだしてていた。

ハドソン前の混雑1967


下の百貨店がハドソンで、(名前を忘れてしまったが)もう一つの百貨店と繁華街における旗艦的存在だったし、デトロイト川河畔のこの中心地帯は日中往来する人々で混雑していた。

まだ呑気で平和な生活だった。

ハドソン百貨店


それが、1967年の夏7月にがらりと変わった。

その夏中西部ミズーリ州のコロンビアにあるミズーリ大学図書館学部の好意で、僕はウエイン州立大学図書館長のパーディ博士から図書館自動化の実習に派遣され、IBM1401のアセンブリイ言語を使いプログラムを書く傍ら、一方図書館学部の夏季講座で講義していた。今から考えると途轍もない未開発、未熟な世界でもあった。高位言語であるFortranやCobolは未だに算術専門だったし、アルファベットを使うなんて商品ラベルあたり位にしかこの世界は興味を持たなかった。だいたい、Cobolに sort という動詞がなかった。そして、Diskがなく、あるのはテープだけだった。

一方、ミズーリは一応北部だとは言え、南部的な文化要素がふんだんに残っていた。住民が話す英語だって、南部訛りが強かったし、黒人の参政権問題なって問題でもなかった。

1967暴動略奪


7月のその朝、僕は滞在していたホテルの食堂に朝食に下りて、食卓で新聞を広げた。そして仰天した。

太い大きな活字で、「デトロイトに黒人暴動、市内各所に放火」とあり、都心に聳える僕たちのラファイェット塔の後ろ側に黒煙が昇っていた。

咄嗟にデトロイトにセントルイス経由で戻ることにした。デトロイトの自宅に電話したが、通じない。その朝娘のアナスタシアは近くの黒人小学校のプールで泳ぐことにもなっていた。

1967暴動と州兵


コロンビアから地方線でセントルイスに飛んで、そこでデトロイト行きの切符を買おうとしたら全部売り切れ。一等切符を拝み倒して手に入れてデトロイトにつき、タクシーで都心に向かい、地下に掘り下げられてある高速道路を辿った。道路の両側を見上げながら走るタクシーの上空に黒煙が濛濛と昇り続ける。そして、かすかながら銃声が聞こえてくる。家族が心配で生きた心地がしなかった。

幸いに家族は無事だった。夜に窓からデトロイトを見下ろして眺めると、あちこちに炎上する放火の結果が見受けられた。まるで、ネロのローマ燃焼の見物みたいだった。

あの日からもう40年の星霜を経た。

国務長官に二度も黒人が就任し、次期大統領には黒人が就任するようなご時世になった。今昔の感ってこのようなことなのだろう。

僕が働いたあの図書館は現在では Purdy Library と命名されている。

WSUパーディイ図書館