癒やされるということ | Peaceful Love

癒やされるということ

わたしたちが何かに心動かされるとき、
内側にあるものと共鳴しているからであるのだとするならば、

無垢なものに癒やされたり
心洗われる想いになるのは
もともと自分の中に、それがあるから、ということになります。

過去にも何度か書いたのですが、
私は随分長い間、
性悪説とまでは言わないですが、性愚説でした。
物事や人の、ポジティブな面しか見ないで生きていたし、その逆があるのも(愚かな生き物故)あたりまえなので「許せない」という感情も持ち合わせていませんでしたが、
自分自身に対しては常に例外でした。

人間全般に関しても、
人は愚かだからこそ、反対側に行こうとすることに意味があり、
そうしようとすることが素晴らしいのだ、と
深いところでは信じていました。

弱いからこそ 強くなろうとする
醜いからこそ 美しくなろうとする
汚れているから 清くなろうとする

どれも、マイナスから這い上がろうとすることなので、とてもエネルギーを使います。
そして、決してそうなれるとは信じていないので、どこまでも自分を許せない。
憧れるけれども、常に(永遠に)手の届かない状態です。

それはある意味、本当かもしれません。
人間の中に、エゴがなくなることは、おそらくないからです。
大切なのは、そこもひっくるめて、どこまで自分を愛してあげられるか、です。
そもそも、エゴだけでできているわけでもないはずです。

私は今は、言うなれば性善説ですが、
人の中には善でない部分も、もちろんある。
善というのは、人の中にある、聖なる部分のことだと思っています。
それは、どんな人にも必ず存在する、魂の本来の姿だと思います。
神様は、はるか空高く遠い場所にいるのではなく、この部分に常にいるのだと考えたとき、
自分を信頼することと、神様や大いなる力を信頼することが、全く同じ意味だと、深いところで腑に落ちました。
常に一体であるのに、わたしたちはそれをいつも忘れてしまう。

そうさせてしまう、特に大きな原因は、
罪悪感だと思います。

私には、そんな力はない、
こんな私にできるはずがない、
許されていいはずがない、
そんな素晴らしいものを受け取る価値はない、など
意識していてもいなくても、
そう信じる限り、
自分の中に、善があると思えない限り、
苦しみを自ら選ぶ、という作業を繰り返してしまうのではないでしょうか。
自分を戒めていなければ安心できないのは、間違いなくエゴの部分です。
わたしたちは、自分が、エゴの部分だけでできていると思いがちです。
でも、そう考えてしまうことこそ、大きな罪ではないでしょうか。
それは、自分が自分の力だけで生きている、ということであり、
それによって作り上げている孤独感も含め、
何よりも神様(大いなる力)に対しての冒涜だと感じます。

自分を無価値だと信じている状態で、
いくら取り繕っても、何も変わらない。
自分自身が、本当は愛されていないとわかっているからかもしれません。
神様からじゃなく、自分自身から、です。
(ここも同じ意味かもしれませんが)

誰かのことを、心から大切だと感じることができるなら、
同じだけ自分にも愛情をかけてあげるべきです。

本当に大切な人を想うのと同じだけ
自分を大切に感じてあげられているか。

もしも、そう言い切れないなら、
今日から始めてみてほしいのです。
大切に、がどういうことかわからないなら、
「丁寧に」自分を扱ってあげてください。
心も体も、深く深く慈しんであげてほしい。

他でもない、自分自身の愛で満たされたときに起こる魔法を
あなたも知ることができますように。

自分が生きていること自体が
この世界のすべてが
奇跡でできていることを
体感できますように。

癒やされた気持ちになること。
それは魂の同調です。
魂の本来の姿を想い出した状態なんだと思う。

癒しは、外側の何かから生まれるものでなく、
もともと自分の中にあるものを想い出した状態だと、知ることができますように。