伊方原発から日本の原発政策を考える

 

大分からフェリーを利用して愛媛に上陸しました。

フェリーは国道197号線としての位置づけなんですよ。

 

国道197号線と伊方原発

 

上陸してほどなく、その伊方原発の見える道の駅伊方きらら館

があり、横にある伊方原発のビジターセンター(案内施設)を

訪問しました。

そこにあったパネルに「はて?」これは何を言いたいのかな?

というものが有りました。

 

宇宙から注がれる放射線は健康に影響は有りませんと・・・

 

放射線は常に微量宇宙から注がれているから健康に問題は

ありませんみたいなこと書かれてますが・・・・・

これ、原発と関係ないでしょ?と思いませんか?

 

CTスキャンは意外と被爆するみたい

私はもうかれこれ30回以上は照射されてるんだけど・・・

たぶん影響出てると思う・・・・・

 

日本にある原発基数はその公式的ブログでも様々ですが

たぶん59基から66基

 

日本は世界の原発基数では米国、フランスに次ぐ

第3位を誇ります。

 

運転可能基数33基

2014年1月現在稼働しているのは12基です。

関西7基、四国1基、九州4基有ります。

伊方原発では3号機が現在稼働中です。

大分、愛媛、山口でそれぞれ裁判所に停止訴訟が出されています。

 

日本の原子力発電所政策が成功したのは読売グループ

トップ正力松太郎氏、国会議員中曽根康弘氏が米国

意向を忠実に実行した結果であります。

 

このお二人が作り上げた「原発安全神話」は2011年3月に

もろくも崩れ去りました。

 

正力松太郎氏

 

中曽根康弘氏

 

私の住んでいた千葉県にも高濃度放射能雨

が降りました。

近くの公園では除染作業が行われ、子供の

遊びは禁止されました。

 

風評被害も酷かった!

福島県からの疎開者は白い目で見られ、福島ナンバーは買取り拒否、

福島県産魚介類野菜は全く売れず、福島県居住者は結婚が破談に

なった例も報告されました。

 

もう一度言いますが、日本の原子力発電所政策が

成功したのは、米国の意向を正力松太郎氏、

中曽根康弘氏が忠実に実行した結果であります。

 

日本に原発を導入し、わが国を原発大国にした人物といえば、

元読売新聞社主の正力松太郎氏と、中曽根康弘元首相の名前が

必ず真っ先にあげられます。

 

当時の二人の関係は、正力氏の意向を、中曽根氏が実現させると

いったように密接過ぎる関係がありました。

さらに正力氏を動かしたのが米国で、米政府―正力―中曽根氏の

太いパイプが築かれていたのでした

そして中曽根氏は、国家予算に初の原子力研究費を実現させました。

 

中曽根氏を背後で指示していたのが読売新聞の社主・正力松太郎氏です。

原子力開発を訴え「原子力の父」と呼ばれた彼は、戦後、戦犯として

訴追されましたが、戦犯訴追解除後、古巣の読売新聞社に復帰しました。

 

 この正力松太郎氏はA級戦犯の疑いで投獄されましたが、

不起訴となり、出獄後に、米国の諜報機関CIA(中央情報局)

の工作に「協力」していたことが、

米国立公文書記録管理局が公開した外交文書

によって明らかになっています。

 

1950年代から60年代にかけて、CIA(中央情報局)は、公職復帰した

政治家、右翼、反社会勢力の人物などを含めた日本の保守層に、資金援助

する形で囲い込みました。

米国の目的は、冷戦下にあった当時、日本の保守政権を安定させる

(日本を共産化させない)こと、情報を提供させ日本の実態を把握すること、

かつ米国の対日政策を推進させることなどがあげられます。

 

米国は核兵器はカネにならないことがわかったので、次に

目につけたのが、原子力発電です。

 

このために、米国は、「原子力の平和利用」の一大宣伝を始めます。

1953年、アイゼンハワー大統領は、国連総会で「平和のための原子力」

政策を打ち出し、「核が生む莫大なエネルギーの平和利用のために

技術供与をしよう」と呼びかけたのでした。

1954年3月に、中曽根氏が主導した初の原子力予算を上程し、

実現させたというのは、この米国政策の延長線上にあったと考えられます。

 

ただし、戦後、日本国民の核アレルギーは極めて強く、日本が原子力

エネルギーを受け入れる見込みはないと見られていました。

そこで、CIAは、日本に原子力を輸出することを可能にするために、

日本国民の原子力に対する恐怖心を取り除くための心理戦を繰り広げます。

そこで利用されたのが、正力氏の読売新聞です。

 

1955年1月、読売新聞は、米国の「平和のための原子力」

プログラムをトップ記事で大々的に紹介し、放送やイベントを

含む半年に渡る一大PR活動を開始したのです。

その2年前にテレビ放送が開始されメディア力が最大限利用されました

 

日本国民はお上の言うことをあまり考えずに従います。

その当時のメディアはまさにお上だったことでしょう。

 

そして1955年(昭和30年)には、原子力基本法が制定されました。

この基本法は自民党成立後、超党派の議員による議員立法で成立し、

ほぼ全会一致で認められました。

当時、自民党・社会党を問わず、「エネルギーは国家百年の計」で、

原子力は、無資源国である日本の国力増進の重要な手段と認識されて

いました。

革新派は、「無資源国の日本が資源を止められたことが無謀な戦争の一因

になった」ことへの反省、保守派は、かつての米ソ冷戦構造下において

「自衛のためなら核兵器を持てる」との発想で「日本の核武装化」への布石、

または少なくとも「核兵器を持てる技術を維持する」という意図があった

とされます。

 

1956年1月に、初代の原子力委員会委員長に就任した正力松太郎氏は、

日本に原子力発電所を5年後に建設する構想を発表するなど、

原発推進政策を推し進めました。

原発建設は日本だけでは出来なので米国の協力が不可欠なのは言うまでも

有りません。

 

こうして、日本は、米国と正力氏中曽根氏の目論見通りに、

原発を各地に建設していくことになったのでした。

正力と中曽根は、政界における原発推進の両輪となって動き、

正力松太郎は「原子力の父」と呼ばれるようになり、中曽根康弘は、

1959年に科学技術庁長官に就任、1982年には総理の座まで射止めました。

 

原発が海に近い過疎地に出来たのは金をばら撒いたからです。

過疎地はお金と雇用創出に誘惑されました。

 

こうして、’70年代、石油ショックを経て、「資源のない日本における原子力

の平和利用』は、国是となり、政官民が一体となって原発を推進していくこと

になったのでした。

 

東日本大震災前まで、日本国内で稼動している原子炉は、54基に及び、

世界で第3位の「原発大国」となりました。

 

自民党政府、官僚機構と電力会社は、一体となって「原子力は日本に

必要不可欠だ」とのキャンペーンを数十年にわたって繰り返した

結果です。

安全性に関しても、「原子力発電は、絶対に必要である」、

「だから原子力発電は、絶対に安全だということにしなければならない」

というロジックが成り立っていました。

 

東日本大震災から13年、原発の是非についての議論はもはや消えて

しまった感があります。

喉元過ぎればなんとやらです。

すぐ忘れる国民的体質も有るでしょう。

 

でももし、その当時1960年代から自然の太陽光、風力、水を利用した

発電にもっと予算を投入していたら、今は自然エネルギー利用輸出大国に

なっていたかも知れません。・・・

もちろんこれは、たらればですが・・・・

 

これだけ原発が残されて居るので、廃炉にも数十年の歳月がかかります。

それでも政府は隣国の恐怖を煽って軍事に予算を増やそうとしています。

 

でももし、いま隣国から核ミサイルが日本の

原発密集地帯に数発撃ち込まれたら

日本はもう数十年いや100年は住めなくなります。

1億人が難民として地球上を彷徨うことになるでしょう。

 

国民の安全と健康の観点から改めてせめて今後50年の

エネルギー政策を考えるべきではないでしょうか?

 

なお、この文章は村尾英俊さんのブログ「日本が原発大国になったわけ」

から要約転記し、加筆修正したものです。