真言を真剣に唱えれば、その修行を導いてくれる高僧に会えます。このことは、私自身が過去に経験しました。しかし、それはあくまで、修行を応援し見守る存在が守護してくれる意味でしかありません。密教はその修行方法を記した教科書に過ぎません。その後、もしその修行をサボったりしたら、消えてしまいます。真言に関してはWikipediaに記述がありますので、参考にして下さい。
真言を唱えれば、何でも叶うと言う風に誤解をしている人が実に多いんです。また、それを助長するかの様に、真言を唱えることを推奨する人も実に多い。あの曼荼羅も高尚でそれ自体が力を与えてくれるかの錯覚にも陥ります。しかし、実際には真言を唱えたところで、曼荼羅(まんだら)を奉り拝んだところで、実際はあなた自身に何の変化も起きません。
曼荼羅
一般的には、密教はある一定の法則により成り立っています。法則とは三密のことです。三密とは真言宗では、心で仏を想い、手で印を結び、三返ないし七返声で唱えることを言います。真言を唱えることはそのうちのたった一つの行動に過ぎません。真言を何百万回、繰り返し唱える意味は、顕在意識を眠らせ、阿頼耶識(あらやしき、潜在・深層意識)へのアプローチをしやすくするに過ぎないのです。このことは真言に限らず、他の宗派のお経等に関しても同様です。
因みに、上記の三密では現象が起きません。もう一つ(四密)足りないからです。これに関しては鑑定等でお尋ね下さい。ある意味技術が必要です。私の情報があなたに正しい見方の手助けになればと思っています。 (出典)