近頃「願う」という言葉に違和感がわいてきました。

もちこです。


前の記事、なんか、すごい方からいいねをいただいている気がするんですが…。ゆめ????まぼろし?

まぼろし~~~!!!(IKK○)








私たちはそれぞれの世界の創造主だから、「こうしたいなあ」と思った瞬間にそれは現実化する(現象化するかは置いておいて)。

となると、「願い」はいつまでも「願い」のままではないんだよなあ、と。

願いとはただの発端で、その後は意図になるんじゃないのかな。

こうしたいなあ。じゃなくて、こうしよ。って感じ。


よくあるお水を飲む例だと、
「喉乾いたなあ。お水飲みたいなあ。」(願い)→「お水飲もう」(意図)→お水を飲む(現象化)

「喉乾いたな」って願った時点でお水を飲めることは決まってる。でもいつまでも願ってるだけじゃどうにもならなくて。その後に「お水飲もう」って思えば自動的に「立ち上がってー」って脳から指令が神経を伝って届いて、筋肉が動いてキッチンに行って、「コップをとってー」って脳から…っていうのが自然に起こって水を飲むという現象化が起きる。


お水飲もう~現象化までは無意識ですよね。
これが自然にそうなるとか他力とかいうやつかな。


よく【思考が先、現実が後】って言われる。
これ信じられなかったんだけど、お水飲むもそうなんですよね。意外と日常にありふれてる。

ブログ書きたいなって思った。書いて更新した。
焼肉食べたいなって思った。焼肉屋に行った。
新しい財布欲しいなって思った。財布が手元に届いた。

それぞれ間に意図を挟むわけだけど。挟まなくても良いのか。財布欲しいって思ってたら人に貰うとかもありだもんね。

とりあえず、ぜーんぶ思考が先で現実が後。
普通のことなんだね。なあんだ。



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願いと起こっていることや認識していることは関係無い。

それぞれが点。それぞれが独立している。
なんの流れも汲まず、ただそれがあるだけ。

なんかね。ラベルを貼るみたいなね。
もしくはたすきね。「あんたが主役」みたいな。


まるいシールになりたいものを書いて、ペタって自分に貼るだけ。


私が私に「もちこ」って名前を与えたみたいに、私の欲しい役割を与えてあげるだけ。

「優しいお母さん」でも良いのよ。子どもいないけど。「私が優しいお母さんであること」と子どもがいないことは関係無い。全てが独立してるから。

「八百屋さん」でも良い。野菜売ってないし仕入れ先も無いけど。良いの良いの。とりあえず先になっちゃうの。


私のリアルで言うと、私は今「営業職」ですが、営業してません。でも営業。


今あることと、私の願いは関係無い。1mm足りとも。


自由すぎてふわふわしています。
眠いだけかも。