日東第一形勝300年の歴史 | 全国一斉 鞆の浦検定(鞆ペディア)

日東第一形勝300年の歴史



【朝鮮通信使の歴史】
 日本へ派遣された李氏朝鮮(1392~1910)からの外交使節団の名称。そもそもの趣旨は室町将軍からの使者と国書に対する返礼であり、永和元(1375)年、足利義満により派遣された日本国王使に対して、信を通わす使者として派遣されたのが始まりである。
 15世紀半ばからしばらく途絶えたが、「朝鮮に出兵するか否かを確認」するため、豊臣秀吉に向けて派遣されている。(安土桃山時代)しかし、その後の文禄・慶長の役によって日朝間が国交断絶となったために中断されたが、その後、江戸時代に再開。
広義の意味では、室町時代から江戸時代にかけてのものすべてを指すが、一般に朝鮮通信使と記述する場合は狭義の意味の江戸時代のそれを指すことが多い。

<大韓民国の歴史教育としての朝鮮通信使>
壬辰倭乱をきっかけに朝鮮と日本の外交関係は断絶していた。
したがって、日本は経済的に困難に陥り、戦乱後成立した日本の徳川幕府は先進文物を受け入れるために、対馬島主をとおして交渉を許可するように朝鮮に懇請した。
朝鮮では日本が犯した誤りを恨みながらも建国以来の交隣政策の原則に照らし、制限された範囲内での交渉を許した。/光海君二(1609)年、己酉約条
そうして富山浦に再び倭館が設置され、そこで日本人は米・木綿・人参などを求めていった。また日本は朝鮮を文化の先進国と考え、使節を派遣するよう要請してきた。
これに対し朝鮮では通信使を派遣したが、その一行はおよそ400余人になり、国賓として待遇を受けた。日本は通信使の一行をとおして先進学問と技術を学ぼうと懸命であった。
したがって通信使は外交使節としてだけでなく、朝鮮の先進文化を日本に伝播する役割も果たした。

日本中が湧いた十二回におよぶ朝鮮通信使の来航。

そのルートは毎回、ほぼ決まっており、釜山(プサン)から船に乗り玄界灘を越え、赤間関(あかまがせき、現在の下関)から瀬戸内海に入り、大坂に上陸してそこから陸路で江戸へ向かう。

<朝鮮通信使>
◎正使
◎副使
◎書記
◎通訳
◎書家
◎画家
◎僧侶
◎医師
など、総勢500人近くにもなる大人数。
きらびやかな異国の装束で練り歩く通信使の行列、国賓として通信使を招くからには、幕府側もその対応には神経を使い、その接待は、寄港地にあたる各藩が担当している。
鎖国時代、通信使の宿舎は、唯一の国際交流の場ともなった。先進文化や学術を吸収しようと、多くの人々がその宿舎を訪れ、使節団には書家や画家、詩人などの文化人や芸術家も多く含まれていたので、彼らの文化に面会を望む日本は多かった。





<第八次朝鮮通信使>
http://ameblo.jp/rediscovery/entry-10833823937.html

◎年号:正徳元(1711)年
◎目的:徳川家宣・襲封祝賀
◎人員:500人/正使・趙泰億
◎往路:9.9鞆の浦着船
◎復路:12.30~1.1鞆の浦着船

 正徳元(1711)年九月重陽の日:六代代将軍家宣の襲職祝賀に来日した。
正使・趙泰億は、ここからの景色を“日東第一形勝(朝鮮より東で一番美しい景勝地という意)”と讃え、従事官・李邦彦(イ・パンオン)に六文字を書かせた。
福山藩主・阿部正福はこの書を木額に仕立て福禅寺に贈呈し、永く寺に保存するように命じた。

日東第一形勝
日東第一形勝 posted by (C)鳶眼

正使・趙泰億は歴代の正使の中でも最高級の学者であり、人物であったと評されている。この時の朝鮮通信使の三使は帰国後、儒学者・新井白石により「国王を日本の将軍と同格にされた」責任を問われ、『辱国の罪』で処罰されてしまう。

「我等は朝鮮に居て、この地の風景が無双なことを、永年に亘って聞いていたのでありましたが、やはり評判戸通りで、今この目で確かめたことは日東(日本の東方地区)の形勝でこれに過ぎるところはございません。これは、ここにいる八人。十六の目が一致した感想です。/朝鮮通信使 李邦彦」


◎鞆の浦の歴史・伝記『鞆史』/江戸時代篇
http://uratami.web.fc2.com/discover/history12edo.html

◎関連ログ/Discovery! 鞆の浦
伊藤仁斎・梅宇・霞臺
http://ameblo.jp/rediscovery/entry-10833805728.html

伊藤梅宇と書記・成夢良
http://ameblo.jp/rediscovery/entry-10833806114.html

伊藤仁斎・梅宇・霞臺と「童子問」
http://ameblo.jp/rediscovery/entry-10833806575.html

◎鞆の浦の歴史・伝記『鞆史』/江戸時代篇
http://uratami.web.fc2.com/discover/history12edo.html

野々口立圃/備後國鞆之浦観音堂之縁起
http://ameblo.jp/rediscovery/entry-10832664702.html

【考察】鞆町並みひなまつり/野々口立圃
http://ameblo.jp/thinktomo/entry-10480085154.html

田能村竹田/通信使船上関来航図
http://ameblo.jp/rediscovery/entry-10832717695.html

趙泰億/第八次朝鮮通信使正使
http://ameblo.jp/rediscovery/entry-10833810959.html

儒学者・新井白石
http://ameblo.jp/rediscovery/entry-10833804368.html

◎朝鮮通信使12回の来日記録一覧

<第一次朝鮮通信使(回答兼刷還使)>
http://ameblo.jp/rediscovery/entry-10833822880.html

<第二次朝鮮通信使(回答兼刷還使)>
http://ameblo.jp/rediscovery/entry-10833823176.html

<第三次朝鮮通信使(回答兼刷還使)>
http://ameblo.jp/rediscovery/entry-10833823273.html

<第四次朝鮮通信使>
http://ameblo.jp/rediscovery/entry-10833823423.html

<第五次朝鮮通信使>
http://ameblo.jp/rediscovery/entry-10833823528.html

<第六次朝鮮通信使>
http://ameblo.jp/rediscovery/entry-10833823695.html

<第七次朝鮮通信使>
http://ameblo.jp/rediscovery/entry-10833823846.html

<第八次朝鮮通信使>
http://ameblo.jp/rediscovery/entry-10833823937.html

<第九次朝鮮通信使>
http://ameblo.jp/rediscovery/entry-10833824068.html

<第十次朝鮮通信使>
http://ameblo.jp/rediscovery/entry-10833824172.html

<第十一次朝鮮通信使>
http://ameblo.jp/rediscovery/entry-10833824293.html

※第十二次朝鮮通信使は対馬で差止になり鞆の浦へは来ていないため、ログはありません。