鞆祇園宮 | 全国一斉 鞆の浦検定(鞆ペディア)

鞆祇園宮

沼名前神社
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【沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)鞆祇園宮(ともぎおんぐう)

御祭神:大綿津見命、須佐之男命
ご神徳:海上安全・漁業繁栄・家内安全・病気平癒・学業成就・安産等
旧社格:国幣小社、延喜式内社
現社格:別表神社(神社本庁所属)
別 名:鞆祇園宮
神 紋:木瓜紋(本家祇園・八坂神社と同じ)
御旅所:大河島城趾に実存
所在地:広島県福山市鞆町後地1225


沼名前神社ホームページ

【大綿津見命】
今から千八百数十年前、第十四代仲哀天皇の二年、神功皇后が西国へ御下向の際、この浦に御寄泊になり、この地に社の無きことを知り斎場を設け、この浦の海中より涌出た霊石を神璽として綿津見命を祀り海路の安全をお祈りになられたのが始まりとする。
さらに、神功皇后御還幸の折、再びこの浦にお寄りになり、綿津見神の大前に稜威の高鞆(いづのたかとも:弓を射る時に使った武具の一種)を納め、お礼をされたところから、この地が鞆と呼ばれるようになった。

もとは、鞆の西町に鎮座しており渡守大明神と呼ばれていた。
現在その渡守社は、当社境内の摂社となっており参道右の階段正面にある渡守社が、その旧社といわれている。 祭神は「船玉命」とされていた。
鞆の西町の社殿は、
慶長四年の火災で焼失し、後地麻谷に遷座。
貞享二年、藩主水野氏により草谷(現在地)へ再建。
明治九年に祇園社本殿へ遷された。

渡守社は貞享2年(1685年)
『備後国風土記』に記載され、
「疫隈国(えんのくまのくにつ)社」に比定された
藩主水野氏により、「鞆祇園宮」の境内・草谷(現在地)へ再建、遷座した。

【須佐之男命】
須佐之男命は、鞆祇園宮と称され、元は鞆の関町に鎮座していたが、慶長四年の火災で同様に焼失し、草谷(現在地)に遷座の後、明治九年綿津見神を合祀し相殿として奉斎されています。
当時は祇園社が、式内・沼名前神社であると考えられていた。
残念ながら、この祇園宮の創建については不詳。

「沼名前神社」という社名は延喜式神名帳に見えるが中世には所在が不明となっていた。
近世に各地の式内社の考証が盛んになり、沼名前神社については「渡守(わたす)社」とする説が有力となった。



明治四(1871)年、 鞆祇園宮が国幣小社に列せられたが、
明治八(1875)年には式内・沼名前神社は渡守社であるとされ、渡守社が祇園社本殿へ遷され祇園社は相殿に祀られた。古名の沼名前神社に改称した。
その際、渡守社の祭神であった船玉命は、海の神ということで大綿津見命とされた。
今でも鞆の浦の人々は「祇園さん」と呼び、崇敬している。

社殿からは、海を挟んで対岸の仙酔島が見え、境内・境外に40社の摂末社がある。