取巻抜六/坂本龍馬 変名 | 全国一斉 鞆の浦検定(鞆ペディア)

取巻抜六/坂本龍馬 変名

【取巻抜六】

江戸時代後期の慶応2年1月21日(1866年3月7日)に京都二本松薩摩藩邸で幕末の薩摩藩と長州藩の間で締結された政治的、軍事的同盟である。薩長盟約、薩長連合ともいう。
その翌日、
慶応2年1月23日(1866年3月8日)、「寺田屋遭難」で知られる事件は、宿泊していた坂本龍馬を伏見奉行の林忠交肥後守の捕り方が捕縛ないしは暗殺しようとした事件。
上手く取り巻きから抜け出した事を表したユーモアに満ち溢れた変名が「取巻抜六」。

龍馬や長州の三吉慎蔵らは深夜のニ時に、幕府伏見奉行の取り方百数十人に囲まれ、いち早く気付いたお龍は風呂から裸のまま裏階段をニ階へ駆け上がり投宿していた龍馬らに危機を知らせた。捕り方に踏み込まれた龍馬らは、拳銃や手槍を用いて防戦しながら乱闘になり、捕り方数名を殺傷するも、自らも左右手の親指を負傷して材木屋に隠れる。お龍は機転を効かせて伏見の薩摩藩邸(直線距離:約800m)に駆け込み、藩邸からは川船を出してもらい救出され九死に一生を得ることができた。藩邸は龍馬に対する伏見奉行からの引き渡し要求を拒否し続けて、その後伏見の藩邸から京の藩邸(二本松)に匿われていたが、また伏見の藩邸に戻り、大阪から船で鹿児島に脱出させた。そのしばらくの間は西郷隆盛の斡旋により薩摩領内に潜伏する。


【その他の変名】

姉・乙女への手紙に署名した「西郷伊三郎」
“馬関(下関)商社”を設立したときは、「才谷梅太郎」(1867年頃)
侍仲間への手紙へは、「高坂龍次郎」
また、
1867年4月、寺田屋へ宛てた手紙では
「大浜濤次郎(とうじろう)事、才谷梅太郎、事、取巻抜六」と署名している。

 この時代、多くの勤王派の志士は幕府や新撰組の追求から逃れるため、いくつも変名を持っていた。
特徴としては、土佐藩士の場合「勤王党弾圧」に関する志士が変名した傾向がある。



過去ログ「大浜濤次郎/才谷梅太郎/取巻抜六」
http://ameblo.jp/thinktomo/entry-10238548634.html