「平成いろは丸」公開/中国新聞2009.12.05.
福山市鞆町の市営渡船(鞆港―仙酔島)に来月就航する「平成いろは丸」が4日、艤装(ぎそう)作業が進む同町の本瓦造船(本瓦誠志社長)で公開された。
全長22.3メートル、幅4.3メートル。坂本竜馬が乗ったいろは丸の4割の大きさ。この日は作業員16人が黒塗りの船体に乗り込み、マストにワイヤを張ったり、塗装前のさび落としなどをした。
今後、客室に木製のいすや体験用のかじを設置し、レトロな雰囲気を演出。鞆と竜馬のゆかりを伝える説明パネルや、観光情報が流れる音声や字幕付きモニターも用意する。総工費約8千万円。
市は25日に引き渡しを受け、2009年1月9日から1日23往復させる予定。
<記事全文/中国新聞>
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坂本龍馬/Discovery! 鞆の浦
いろは丸展示館//Discovery! 鞆の浦
【伊呂波丸(いろはまる)】
「いずれ血を見ずはなるまいと存じ居り候」、坂本龍馬は事件の顛末を記した書状を、大阪の海援隊の菅野覚兵衛に宛て送付しました。
「我々共荷物も何も失いしものをただ鞆の港になげあげ」、紀州藩の明光丸は鞆港から長崎に向けて出航しました。1867年(慶応3年)4月27日午後の事です。
激怒の文面で、決死の覚悟が読み取れます。
坂本龍馬は慶応3年4月初旬に海援隊を組織し、伊予大洲藩から「いろは丸」を借用、海運業にのりだしました。4月19日、長崎港を出航し、大阪に向けて物資を輸送中、23日午後11時頃、岡山県六島沖で紀州藩の軍艦明光丸(1861年建造のイギリス製軍艦・887トン)と衝突しました。明光丸は鞆の津へ向けて、いろは丸を曳航していましたが、宇治島南4Kmの地点でいろは丸は沈没したのです。
<伊呂波丸>
1862年建造/イギリス製商船/160トン/全長54メートル
<平成いろは丸>
2009年建造/本瓦造船製旅客船/19トン/全長22.3メートル
全長22.3メートル、幅4.3メートル。坂本竜馬が乗ったいろは丸の4割の大きさ。この日は作業員16人が黒塗りの船体に乗り込み、マストにワイヤを張ったり、塗装前のさび落としなどをした。
今後、客室に木製のいすや体験用のかじを設置し、レトロな雰囲気を演出。鞆と竜馬のゆかりを伝える説明パネルや、観光情報が流れる音声や字幕付きモニターも用意する。総工費約8千万円。
市は25日に引き渡しを受け、2009年1月9日から1日23往復させる予定。
<記事全文/中国新聞>
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坂本龍馬/Discovery! 鞆の浦
いろは丸展示館//Discovery! 鞆の浦
【伊呂波丸(いろはまる)】
「いずれ血を見ずはなるまいと存じ居り候」、坂本龍馬は事件の顛末を記した書状を、大阪の海援隊の菅野覚兵衛に宛て送付しました。
「我々共荷物も何も失いしものをただ鞆の港になげあげ」、紀州藩の明光丸は鞆港から長崎に向けて出航しました。1867年(慶応3年)4月27日午後の事です。
激怒の文面で、決死の覚悟が読み取れます。
坂本龍馬は慶応3年4月初旬に海援隊を組織し、伊予大洲藩から「いろは丸」を借用、海運業にのりだしました。4月19日、長崎港を出航し、大阪に向けて物資を輸送中、23日午後11時頃、岡山県六島沖で紀州藩の軍艦明光丸(1861年建造のイギリス製軍艦・887トン)と衝突しました。明光丸は鞆の津へ向けて、いろは丸を曳航していましたが、宇治島南4Kmの地点でいろは丸は沈没したのです。
<伊呂波丸>
1862年建造/イギリス製商船/160トン/全長54メートル
<平成いろは丸>
2009年建造/本瓦造船製旅客船/19トン/全長22.3メートル