崖の上のポニョと鞆の浦(後編) | 全国一斉 鞆の浦検定(鞆ペディア)

崖の上のポニョと鞆の浦(後編)

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 『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』などのアニメーション映画を手掛けた宮崎駿監督が11月20日、東京・有楽町の日本外国特派員協会に登場、最新作の『崖の上のポニョ』や現代社会に対する不安、自らの映画哲学などについて語った。

【スタジオ・ジブリの写真など、他の画像を含む記事】

 前編は現在憂いていることや海外のクリエイターとの比較などの話だったが、後編では宮崎監督の作品や好きな映画などについての質疑応答を紹介する。

●作品が分かりにくくなった理由

——『崖の上のポニョ』でデボン紀を題材とされた理由はなぜですか?

宮崎 その前のカンブリア紀に魚はいませんから、魚がいっぱいいるのはデボン紀かなと。甲冑魚というのは私が子どものころ、とてもドキドキした記憶があるんです。だからデボン紀にしたのです。

——初期の作品に比べて、最近は『崖の上のポニョ』のようにいろいろと解釈できるような作品が多いのはなぜですか?

宮崎 自分の変化もあると思いますが、もう1つは世界がますます複雑になったため、現実の世界を追いかけていくうちに映画が複雑になってしまったのです。

 (分かりやすい作品は)DVDにもなっていませんし、一切外に出ていない(三鷹の森ジブリ)美術館用の短編があります。そこで今まで6本ほど作った短編を見ていただければ、極めてシンプルな幸せな世界があると思います。

——主人公が若い女の子ばかりなのはなぜですか? 今後もこの傾向を続けていくおつもりですか?

宮崎 今、スタジオの若いスタッフに、「君たちは8歳の男の子を主人公にした映画を作らなければならない」と私は言っています。それはとても難しい作業なのです。

 なぜなら8歳の少年は悲劇的にならざるを得ないものを強く持っているからです。知らなければいけないことが山ほどありすぎ、身に付けなければいけない力はあまりにも足りなくて……つまり女の子たちとは違うのです。少女というのは現実の世にいますから、極めて自信たっぷりに生きていますけど、男の子たちはちょっと違うのだと思います。

 それは私の不幸な少年時代の反映なのかもしれませんが、若いスタッフには「君たちの幸せな少年時代を反映させて、少年を主人公に映画を作れ」と言ってあります。

 その年齢の少年たちは実に簡単に世の中のワナに引っかかるのです。つまらないカードを集めたり、つまらないラジコンの車に夢中になったり、あっというまに商業主義のえじきになってしまって、なかなか心の中を知ることができないのです。

——息子さん(宮崎吾朗氏)もスタジオ・ジブリでアニメの監督(『ゲド戦記』)をされていますが、将来的には息子さんを後継者としてお考えですか?

宮崎 非常に微妙な問題です。自分の息子だからといってえこひいきはしません。彼はこの次に本当に試されるのだと思います。

●何時間鉛筆を握っていても疲れない腕がない

——資金を集めること、キャラ作り、ストーリー作り、アニメ制作で一番大変なのはどれですか?

宮崎 お金集めは鈴木(敏夫)プロデューサーがやってくれるので何の心配もいりません。つまり、自分の才能の不足に苦しむのだと思います。

 1日4時間しか寝なくてもスッキリしている頭とか、机の上の細かい絵がよく見える目とか、何時間指を動かしていても鉛筆を握っていても疲れない腕とかそういうものがないのです。

——アニメスタジオの労働環境は劣悪らしいですが、日本の今のアニメ業界についてどう思いますか?

宮崎 日本の一般的なアニメーションの状態を論ずる状況に私はないので、自分のことだけ話します。

 「アニメーターの労働条件があまりにもひどい」というのは日本で一般的だと思いますが、私たちはまともにすべきだと努力しました。でも、自分たちがカバーできる範囲はとても狭いのです。

 (2009年4月に)新人アニメーターたちが(スタジオ・ジブリに)入ります。彼らは、通常の給料がもらえるはずです。ただ、適性があるかないかというのは不幸にしてすぐには分かりませんが、私たちは東京の本郷の宿屋に泊まって、毎日出勤してもらって適性能力を調べるためのテストを10日間にわたってやりました。

 その結果、来年の4月から20人のアニメーターが職場に参加することになります。その養成のために、養成用作品を作りますが、そのあとも20人だけではなくて、続けて(採用して)いきたいと思っています。私たちは外部依存をしたくない。労働条件の差を利用して映画を作りたいとは思いませんので、何とかして自分たちのリスクで映画を作っていきたいと思っています。

 全国から若者たちが集まってきますが、東京で1人暮らしを始めて、勤めをするのはとてもストレスが強いので、ちょっと東京を離れた別の場所に養成用スタジオを作りました。


●『となりのトトロ』は“絶対お客が来ない映画”だった

——映画が経済的にうまくいかなかった経験はありますか?

宮崎 ある時期まで「自分たちのかかわるアニメーションは経済的に成功しない」という自信を持っていた時期があります。それはそういうものだと思っただけで、自分たちの方針を変えたいとは思いませんでした。

 『となりのトトロ』※という作品の企画が通った時も、奇跡的に針の穴を通すような偶然がいくつか重なって実現したんです。あの映画はそれまでの日本映画の常識で言えば、“絶対お客が来ない映画”だったわけですから。

※となりのトトロ……田舎へ引っ越してきた姉妹と、不思議な生き物「トトロ」との交流を描いた物語。

——自分の作りたいものと、売れるものを作ってほしいと言われるプレッシャーとのジレンマを感じたことはありますか?

宮崎 アニメーションを作るのは個人的な努力だけではなくて、本当に面倒臭い仕事をいっぱいやらないといけないのです。個人的にも本当に膨大な作業量がなくてはいけないのです。それで「お金がもうからなくてもいい」というのは、嫌なことです。だから「これはもうからないな」と思ったものは手を出しません。みんなで不幸になる必要はないですからね。

 「みんなでやってよかった」というものを探す責任を私は背負ってアニメーションスタジオにいますから、もしそれを背負わなくていいというのならアニメーションスタジオにいなくてもいいんじゃないかと思います。だからジレンマはありません。

——宮崎さんは、これまで何度も映画の監督を引退するつもりだとおっしゃられていました。どうしてお考えが変わったのですか?

宮崎 もうすでに引退しているのだと私は思ってます。「みんなの好意で時々仕事をやらせてもらってるんだと思った方がいいな」と思って生きています。

 ただ、映画を作るというのは非常にリスクのあることです。むしろリスクを求めて私たちは映画を作っていますので、映画を作り終わるころには本当に力を出し切っています。だから、もう何にもやりたくないのです。「何もできないだろう」と自分で思えるのですね。それで、毎回ああいうこと(「引退する」)を言っていましたが、もうさんざん言いすぎましたので言わないことにしています。

——ロボット関係の仕事をする人は『鉄腕アトム』の影響を受けていると言われていますが、宮崎さんの映画を見た子どもは将来どんな仕事を選ぶでしょうか?

宮崎 普通の人になってもらえればいいと思います。

——宮崎さんが成功した本当の秘密はアマチュア志向にあるように思えます。アマチュア志向であることはアニメで成功するために重要ですか?

宮崎 「商業的に成功することは、大して意味がないんだ」と本当は思っています。仕事を続けるために一定の商業的な成果を上げなければなりませんが、それは目的ではありません。

 ですから私たちは「30年はお客さんに見捨てられない映画を作りたい、それができたら素晴らしい」と思っています。映画というのはそれ以上の時代を超えていくのは不可能だと私は思っています。歴史的な意味はあるかもしれないですが、30年前のフィルムを楽しむ大衆はいません。ですから、自分たちの仕事の限界と、自分たちのできる範囲の両方を忘れないようにしながら仕事をしています。

——30年以上前の映画でも、『風と共に去りぬ』や『白雪姫』など素晴らしい映画はいっぱいありますよね。そういう作品をどう思いますか? 『カサブランカ』を知っていますか?

宮崎 (『カサブランカ』は)もちろん知っています。自分にとって大切な映画は、自分の生涯の友にはなると思います。しかし今、『カサブランカ』を公開したからといって、たくさんのお客さんが来るわけじゃないという意味です。

 小津安二郎の作品がありますが、それを一般公開しても日本では1つの映画館しか埋まらないでしょう。ほかの映画館でやるわけにはいきません。

 私は小津安二郎をものすごく尊敬しています。それは少しも変わっていません、なぜなら私は(小津安二郎の作品を)見て感動したから。それは商業的な成功とは無関係だと思っています。

 『カサブランカ』のリメイクをするのはもっと愚劣なことだと思います。映画はやっぱりその時代のものなんだと思います。

●「生きるのは大変なんだ」と思いながら映画館から帰った

——影響を受けた本や映画で忘れられないものはありますか?

宮崎 忘れられない映画はいっぱいありますね。私が映画を見た時代はアニメーションよりも、大人が見るような映画をずいぶん見ました。日本映画の全盛時代に12歳ごろに出会いました。ですから映画館から帰る時に意気揚々と帰ってくるのではなくて、「生きるのは大変なんだ」と思いながら帰ってきたのが映画の思い出です。

 もちろん西部劇も時代劇も、ターザン映画もずいぶん見たのです。でも時間が経つに従ってそういうのは忘れていってしまって、(自分の心の中に)残っているのは「生きるのは大変だなあ」という映画なのです。

 私はチャンバラ映画のようにワッと切り捨てたらハッピーだとか、バーンと撃ったからケリがついたとかそういう映画を作りたくない。それは「その時は口に甘いかもしれないけれども、自分の記憶には残らないだろう」という気がしています。「自分が行ったことはないけれども、見たことはないけれども、世界は美しいものなんだな」と見た子どもたちが受け止めてくれるようなものが含まれる映画を作りたいと思ってます。

——第二次世界大戦後の日本の歴史の中で、一番懐かしさを感じる時期があれば教えてください。もしなければ、日本の歴史の中でどの時期に懐かしさを感じますか?

宮崎 ずいぶん私は探していたのです。いつが一番良かったのか。どこで止まればよかったのか。

 止まらないことが分かりました。

 例えば昭和30年代を懐かしいという人が日本にいます。「その時期は良かったのではないか」と錯覚を起こしている人がいますが、非常に不幸な時代でした。

 なぜ不幸な時代だったかというと、うっくつした欲求不満がその後に凶暴な公害をもたらすのです。日本中の海や川を汚し、山を削りゴミだらけにしました。そんなに凶暴になることは、かつての日本にはなかったことです。懐かしいと言われている時代に、それだけの欲求不満がうずまいていたのです。実際自分の子ども時代でも、周りの友人たちに学校に行けない人とか、自活しないといけないという人たちがいました。

 江戸時代ならいいのか。それはもちろん惨憺(さんたん)たるものを、たくさん含んだ社会です。

 「いったいどこに止まれば良かったのか」というのは、これはずいぶん探しましたが、結局「楽園というものは自分の幼年時代にしかない、幼年時代の記憶の中にだけあるんだ」ということが分かりました。親の庇護(ひご)を受け、多くの問題を知らないわずか数年の間だけれども、その時期だけが楽園になると思うようになるのではないでしょうか。

●各国記者がサインを求める

 プログラム終了後、各国の記者(司会の女性までも!)がサインを求めて、宮崎監督のもとに集まる様子が見られた。その1人1人に丁寧にサインをする宮崎監督。世界中で宮崎監督の作品が受け入れられていることが伝わってくる光景だった。