鞆の浦と宮崎駿
審議を問われる「応援歌」というワンワード
これで明らかになるのではないか?
【参考記事】
http://blogs.yahoo.co.jp/himalayadesign/19979842.html
http://blogs.yahoo.co.jp/himalayadesign/19979827.html
http://blogs.yahoo.co.jp/himalayadesign/19979806.html
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以下(Business Media 誠 - 11月27日 12:11)
風の谷のナウシカ』『となりのトトロ』『千と千尋の神隠し』など数々の映画で、国内外から高い評価を受けている宮崎駿監督。アニメーション界の巨匠が何を思って映画を作っているのか、どんなことを憂いているのかを語った。
【保育園の写真など、他の画像を含む記事】
「悪人をやっつければ世界が平和になるという映画は作りません」
『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』などのアニメーション映画を手掛けた宮崎駿監督が11月20日、東京・有楽町の日本外国特派員協会に登場し、講演を行った。
『千と千尋の神隠し』が2003年にアカデミー賞長編アニメーション部門作品賞を獲得するなど、宮崎監督は海外でも評価が高い。内外から200人以上の記者が集まり、10分間の講演後には1時間以上も質問が投げかけられた。時には笑いながら、時には真剣な顔で宮崎監督は、最新作の『崖の上のポニョ』や現代社会に対する不安、自らの映画哲学などについて語った。
以下、宮崎監督のメッセージをご紹介しよう。
●ポニョと同時に保育園も作った
私たちが作った『(崖の上の)ポニョ』という作品は、実際にスタッフに子どもが生まれて、その子どもを見ているうちに、「この子が最初に見る映画として作ろう」ということで、それを自分たちのモチベーションにして作りました。
今、私たちの社会は潜在的な不安に満ちています。私たちの職場(スタジオ・ジブリ)でも、それは同じです。自分のかわいい子どもたちにどんな未来が待っているかということについて、非常に大きな不安を親たちが持っています。それから、子どもをどういう風に育てたらいいのかということについても大きな不安を持っています。
それで映画を作りながら、私たちはジブリで働いている人間のための保育園を作ってしまったのです。地方自治体から補助をもらうと、いろいろややこしいことがくっ付いてきますので、好きなことをやるために、まったく企業負担でやることにしました。
(その保育園は)部屋の中に階段があったり、はしごがあったり、穴が空いていたり、それから伝統的な日本の畳や床の間や障子が入っているような不思議な建物です。庭には山や大きな石や、いかにもぶつかると痛そうな石の階段や砂の坂道や、それから落っこちそうな池があります。
今年の4月から始めたのですが、子どもたちをそこに放つと、ハラハラドキドキ鳥肌が立つような恐怖を感じます。しかし、子どもたちは環境を利用して、敏しょうに転がって、泣きもしないのです。池の中に入って遊び、木の実を拾って食べ、はいながら砂の坂道を登り、滑り降り、本当に見事なものです。この保育園を作った結果、私たちは子どもの未来を不安に思うよりも、子どもたちの持っている能力に感嘆する毎日になりました。
この国に立ち込めている不安や将来に対する悲観的な考え方は、実は子どもたちには全く関係ないことなのです。つまり、この国が一番やらないといけないことは、内部需要を拡大するための橋を造ったり、道路を造ったりすることではなく、この子どもたちのための環境を整えること。常識的な教育論や日本の政府が言っているようなくだらないようなことではなくて、ナショナリズムからも解放されて、もっと子どもたちの能力を信じて、その力を引き出す努力を日本が内部需要の拡大のためにやれば、この国は大した国になると信じてます。
実際に子どもたちを取り巻いている環境は、私たちのアニメーションを含め、バーチャルなものだらけです。テレビもゲームもそれからメールもケータイもあるいはマンガも、つまり私たちがやっている仕事で子どもたちから力を奪いとっているのだと思います。これは私たちが抱えている大きな矛盾でして、「矛盾の中で何をするのか」をいつも自分たちに問い続けながら映画を作っています。でも同時にそういう子ども時代に1本だけ忘れられない映画を持つということも、また子どもたちにとっては幸せな体験なのではないかと思って、この仕事を今後も続けていきたいと思っています。
●地域社会をテーマにして
10分ほどの講演後に設けられたQ&Aセッション。内外からの30人ほどの記者たちがさまざまな質問を宮崎監督に投げかけた。
——私はイングランドの田舎に実家があります。近所は農家で、子どもたちは昼間牛や羊の面倒をみるなどの仕事をしているが、夜にはあなたの映画を見る。彼らは現実世界とバーチャル世界を区別してないように思えるのですが、あなたは現実世界とバーチャル世界の違いについてどうお考えですか?
宮崎 今のお話はとてもいいお話で、私はとてもうれしかったのですが、私が先ほど話したのは、この国ではバランスが崩れているということなのです。実際に面倒をみる羊や家畜がいるわけではなく、裸足で走り回る地面を持たないで、バーチャルなものに取り囲まれているわけなんですね。その環境を変えるために、内部需要の拡大を図るべきだと私は思っています。
子どもたちが字を覚える前に覚えなければいけないことがいくつかあって、これは石器時代からやってきたことです。自分で火をおこして、燃やし続けて消すことができる、水の性質を理解している、木に登れる、縄でものをくくれる、針と糸を使える、ナイフを使える。これだけは国が責任をもって子どもたちに字を教える前に教えなければいけないと思っています。
本当は国がやらなくても両親や地域社会がやるべきなんですけど、地域社会をこの国は経済成長のために破壊してしまったので、それを時間をかけて取り戻さければならないと強く思ってます。
——仮想世界が現実に出てきたともいえる「三鷹の森ジブリ美術館」を造られましたが、ほかに何か造ろうと考えておられますか?
宮崎 私たちの経済力と密接な関係がありすぎて、予測することは不可能です。空想していることだけはいっぱいあるのですが、それができるかできないかはまだ分かりません。でも1つ、「地域の子どもが集まって来るような、親があんまり喜ばない駄菓子屋を作りたい」ということは考えています。
——子どもたちをナショナリズムから解放するということですが、今後は地域社会に根ざした映画を作るつもりか、グローバルな映画を作るつもりかどちらですか?
宮崎 「世界の問題は多民族にある」という考え方が根幹にあると思っています。ですから少なくとも自分たちは、悪人をやっつければ世界が平和になるという映画は作りません。
「あらゆる問題は自分の内面や自分の属する社会や家族の中にもある」ということをいつも踏まえて映画を作らなければいけないと思っています。
「自分の愛する街や愛する国が世界にとって良くないものになるという可能性をいつも持っているんだ」ということを、私たちはこの前の戦争の結果から学んだのですから、学んだことを忘れてはいけないと思っています。
——宮崎さんの映画には、環境問題について示唆する場面が多く登場しているように思えます。宮崎さんは日本の環境問題の現状について楽観的ですか、悲観的ですか?
宮崎 ものすごく悲観的ですね。その後に楽観的なものが来るだろうと思っていますけど。
(環境問題については)とことんひどくなるまで学ばないだろうと思います。この国は生産するよりも、消費する方が多い国なんです。この国で生産できるものは3200万人までの人口しか養えません。残りの分は、自動車を作ったりアニメーションを作ったりして稼いでるわけなんですね。食料の自給率が低いとか、自分が着ている下着が全部中国製であるとか、そういうことがこの国の不安の根幹にあるんだと私は思っています。
その構造を劇的に変えることは不可能ですから、少しずつ少しずつ変えようとしたら、随分長い年月がかかります。少しずつ変えていっても、現代の文明の終焉までに滑り込みセーフになるのかどうか、私はあまり自信がありません。ただ個人的には、自分と自分の周辺に関しては最大限の努力をしていくつもりです。
——日本の将来は悲観的ということですが、60年前の悲惨な状況から経済大国にまで成長したということを考えると、そんなに悲観的になる必要はないのではないでしょうか?
宮崎 経済の恩恵を得た結果、その次のステップに「どういう風に進むか」ということだと私は思います。次のステップに進む時に、大変多くの知恵と自制心がいるのだと思います。
生産者であることと消費者であることは同時でなくてはいけないのに、私たちの社会はほとんどが消費者だけで占められてしまった。生産者も消費者の気分でいるというのが大きな問題だと思います。
それは自分たちの職場で感じます。人を楽しませるために自分たちの職業で精いっぱい力を尽くすのではなく、それもやるけれど、ほとんどの時間は他人が作ったものを消費することによって楽しもうと思って生きていますね。
それは僕のような年寄りから見ると、非常に不遜なことであるという風に、真面目に作れという風に、力を込めて作れという風に(感じ)、「すべてのものをそこ(作品)に注ぎ込め」と怒り狂っているわけです。だから全体的なモチベーションの低下がこの社会を覆っているんだと思います。
●海外の巨匠と比較
——最近日本ではアニメや漫画が「ソフトパワー」と言われてますが、この言葉をどう受け止めていますか。自分の映画はソフトパワーの一種だと思っていますか?
宮崎 スタジオの中で私たちは、「海では蒸気船はなくなりましたが、ディーゼル機関やタービンを持った船がいっぱい走り回っている。しかし、1隻ぐらいは帆船のままで航海してもいいのではないか」と話しています。(現代の経済観念である)ソフトパワーという言葉にくくられたくないと思っています。
——麻生首相がアニメ・漫画好きと公言されていますが、これをどうお考えになっていますか?
宮崎 恥ずかしいことだと思います。それはこっそりやればいいことです。
——ジブリでは手描きなどの技法を採用されています。ピクサーなどの海外のアニメーションスタジオの手法などはどうご覧になっていますか?
宮崎 私はピクサーの(ジョン・)ラセター※とは友人です。かなり深い関係の友人です。それから英国のアードマン(・アニメーションズ)のニック・パーク※※も友人です。彼らが努力して作った作品を見た時に、彼らの努力を一番理解できる人間だと思っています。彼らの努力や恐怖、恐怖というのは「この作品が受け入れられるのか、受け入れられないのか」という恐怖ですが、そういうことも含めて共有できます。
私たちが鉛筆で描くことを、ラセターは喜ぶと思いますよ。「お前は絵を描けるんだから絵を描け」と前から言ってましたから。だから、そういう風に考えて、友人たちが作っている世界(を観ると)、いろんなところでそれぞれ頑張っているんだなあということです。
※ジョン・ラセター……『トイ・ストーリー』シリーズの監督
※※ニック・パーク……『ウォレスとグルミット』シリーズの監督
——ウォルト・ディズニーと比較する意見についてどう思われますか?
宮崎 (ウォルト・ディズニーとは)違います。私はプロデューサーではありません。ウォルト・ディズニーは非常にすぐれたプロデューサーでした。それでウォルトナインズ※という非常にすぐれたアーティストたちと仕事をすることができた。彼らの無限な信頼を得ていた人間だと思いますね。
※ウォルトナインズ……ウォルト・ディズニー・スタジオで中心的な役割を果たしていたアニメーター9人のこと。ナイン・オールドメンとも言われる。
ウォルト・ディズニーとウォルトナインズとの関係は、あの時代にしかありえなかったような非常に濃密な幸せな関係だったと思います。私たちは私たちなりに(そうした幸せな関係を)持っていますが、比較することはできません。1930年代にアニメーションを確立したという彼らの誇りと、それを使って商売をやってきたその後の人間たちとではずいぶん違うんだということです。
●ユーゴスラビアの内戦が『紅の豚』のストーリーにも影響を与えた
——作品を作るときに、外国人でも共感できる要素を入れることは考慮していますか?
宮崎 実は何も分からないのです。私は自分の目の前にいる子どもたちに向かって映画を作ります。子どもたちが見えなくなってしまうときもあります。それで中年に向かって映画を作ってしまったりもします。
自分たちのアニメーションが成り立ったのは、日本の人口が1億を超えたからです。日本国内でペイラインに達する可能性を持つようになったからなのですが、国際化というのはボーナスみたいなもので、私たちにとっていつも考えなければならないのは、日本の社会であり、日本にいる子どもたちであり、周りの子どもたちです。それをもっと徹底することによって、世界に通用するぐらいなある種の普遍性にたどり着けたら素晴らしい。
——宮崎さんの映画の舞台設定には、欧州、特に中欧や東欧を思い起こさせるものがあります。忙しいスケジュールの中で、世界中を旅する時間があるのかと心配しますが、舞台設定のアイデアはどういったところから思い付かれるのですか?
宮崎 (日本と欧州との間に)もし共通しているものがあるとしたら、人間の社会は似ているところがいっぱいあるんだということだと思うのです。私があえて日本の西の方の世界を中心にして映画を作っているのは、自分が旅行をして発見があったからです。
東京というのは開拓村なんですね。日本の歴史で言えば、新しいところなんです。ひょっとすると今ここにいるところは海の上だったかもしれません。
答えになっていませんかね(笑)。インタビューを受けるのは苦手ですけども、旅行は好きです。着てくる服装を制限するようなところには行きたくないです。
——実際に行った場所から影響を受けていますか?
宮崎 自分が行った場所には全部影響を受けています。行ってすぐ素晴らしいと思ってすぐ映画にしているわけではありません。何年も経ってから映画にしています。アイルランドも素晴らしかったし、エストニアも素晴らしかったし、英国も素晴らしかった。映画にしていませんがフランスに行ってとても素敵な体験をしましたし、クロアチアとかに行って映画を作ってみたいとか思ったり……いい加減なことを言ってすみません。
——クロアチアに実際に行っていないのに、どうやってそこを題材にした映画を作ったのですか?
宮崎 『ポルコ・ロッソ(紅の豚)』※でアドリア海を舞台にした時に、われらが主人公はクロアチアにある島のどこかに隠れ家を持っているように設定したのですが、見に行くことができませんので、航空写真を穴があくほどいっぱい見て勝手にやらせてもらいました。「違っているんじゃないかな」と内心困ってはいたんですけど。
※『紅の豚』……1920年代のイタリア・アドリア海を舞台とした、飛行艇を乗り回す「空賊(空中海賊)」と賞金稼ぎの「ブタ」の飛行艇乗りとの物語。
ついでに申しますと、作っている時にユーゴスラビアで内戦が始まりまして、クロアチアの都市が砲撃されるということがありました。その結果、私たちの映画も長くなって、ちょっと重い内容を持つようになったのですが、今のようにクロアチアが平和になったのはとてもうれしいことです。
『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』などのアニメーション映画を手掛けた宮崎駿監督が11月20日、東京・有楽町の日本外国特派員協会に登場、最新作の『崖の上のポニョ』や現代社会に対する不安、自らの映画哲学などについて語った。
【スタジオ・ジブリの写真など、他の画像を含む記事】
前編は現在憂いていることや海外のクリエイターとの比較などの話だったが、後編では宮崎監督の作品や好きな映画などについての質疑応答を紹介する。
●作品が分かりにくくなった理由
——『崖の上のポニョ』でデボン紀を題材とされた理由はなぜですか?
宮崎 その前のカンブリア紀に魚はいませんから、魚がいっぱいいるのはデボン紀かなと。甲冑魚というのは私が子どものころ、とてもドキドキした記憶があるんです。だからデボン紀にしたのです。
——初期の作品に比べて、最近は『崖の上のポニョ』のようにいろいろと解釈できるような作品が多いのはなぜですか?
宮崎 自分の変化もあると思いますが、もう1つは世界がますます複雑になったため、現実の世界を追いかけていくうちに映画が複雑になってしまったのです。
(分かりやすい作品は)DVDにもなっていませんし、一切外に出ていない(三鷹の森ジブリ)美術館用の短編があります。そこで今まで6本ほど作った短編を見ていただければ、極めてシンプルな幸せな世界があると思います。
——主人公が若い女の子ばかりなのはなぜですか? 今後もこの傾向を続けていくおつもりですか?
宮崎 今、スタジオの若いスタッフに、「君たちは8歳の男の子を主人公にした映画を作らなければならない」と私は言っています。それはとても難しい作業なのです。
なぜなら8歳の少年は悲劇的にならざるを得ないものを強く持っているからです。知らなければいけないことが山ほどありすぎ、身に付けなければいけない力はあまりにも足りなくて……つまり女の子たちとは違うのです。少女というのは現実の世にいますから、極めて自信たっぷりに生きていますけど、男の子たちはちょっと違うのだと思います。
それは私の不幸な少年時代の反映なのかもしれませんが、若いスタッフには「君たちの幸せな少年時代を反映させて、少年を主人公に映画を作れ」と言ってあります。
その年齢の少年たちは実に簡単に世の中のワナに引っかかるのです。つまらないカードを集めたり、つまらないラジコンの車に夢中になったり、あっというまに商業主義のえじきになってしまって、なかなか心の中を知ることができないのです。
——息子さん(宮崎吾朗氏)もスタジオ・ジブリでアニメの監督(『ゲド戦記』)をされていますが、将来的には息子さんを後継者としてお考えですか?
宮崎 非常に微妙な問題です。自分の息子だからといってえこひいきはしません。彼はこの次に本当に試されるのだと思います。
●何時間鉛筆を握っていても疲れない腕がない
——資金を集めること、キャラ作り、ストーリー作り、アニメ制作で一番大変なのはどれですか?
宮崎 お金集めは鈴木(敏夫)プロデューサーがやってくれるので何の心配もいりません。つまり、自分の才能の不足に苦しむのだと思います。
1日4時間しか寝なくてもスッキリしている頭とか、机の上の細かい絵がよく見える目とか、何時間指を動かしていても鉛筆を握っていても疲れない腕とかそういうものがないのです。
——アニメスタジオの労働環境は劣悪らしいですが、日本の今のアニメ業界についてどう思いますか?
宮崎 日本の一般的なアニメーションの状態を論ずる状況に私はないので、自分のことだけ話します。
「アニメーターの労働条件があまりにもひどい」というのは日本で一般的だと思いますが、私たちはまともにすべきだと努力しました。でも、自分たちがカバーできる範囲はとても狭いのです。
(2009年4月に)新人アニメーターたちが(スタジオ・ジブリに)入ります。彼らは、通常の給料がもらえるはずです。ただ、適性があるかないかというのは不幸にしてすぐには分かりませんが、私たちは東京の本郷の宿屋に泊まって、毎日出勤してもらって適性能力を調べるためのテストを10日間にわたってやりました。
その結果、来年の4月から20人のアニメーターが職場に参加することになります。その養成のために、養成用作品を作りますが、そのあとも20人だけではなくて、続けて(採用して)いきたいと思っています。私たちは外部依存をしたくない。労働条件の差を利用して映画を作りたいとは思いませんので、何とかして自分たちのリスクで映画を作っていきたいと思っています。
全国から若者たちが集まってきますが、東京で1人暮らしを始めて、勤めをするのはとてもストレスが強いので、ちょっと東京を離れた別の場所に養成用スタジオを作りました。
●『となりのトトロ』は“絶対お客が来ない映画”だった
——映画が経済的にうまくいかなかった経験はありますか?
宮崎 ある時期まで「自分たちのかかわるアニメーションは経済的に成功しない」という自信を持っていた時期があります。それはそういうものだと思っただけで、自分たちの方針を変えたいとは思いませんでした。
『となりのトトロ』※という作品の企画が通った時も、奇跡的に針の穴を通すような偶然がいくつか重なって実現したんです。あの映画はそれまでの日本映画の常識で言えば、“絶対お客が来ない映画”だったわけですから。
※となりのトトロ……田舎へ引っ越してきた姉妹と、不思議な生き物「トトロ」との交流を描いた物語。
——自分の作りたいものと、売れるものを作ってほしいと言われるプレッシャーとのジレンマを感じたことはありますか?
宮崎 アニメーションを作るのは個人的な努力だけではなくて、本当に面倒臭い仕事をいっぱいやらないといけないのです。個人的にも本当に膨大な作業量がなくてはいけないのです。それで「お金がもうからなくてもいい」というのは、嫌なことです。だから「これはもうからないな」と思ったものは手を出しません。みんなで不幸になる必要はないですからね。
「みんなでやってよかった」というものを探す責任を私は背負ってアニメーションスタジオにいますから、もしそれを背負わなくていいというのならアニメーションスタジオにいなくてもいいんじゃないかと思います。だからジレンマはありません。
——宮崎さんは、これまで何度も映画の監督を引退するつもりだとおっしゃられていました。どうしてお考えが変わったのですか?
宮崎 もうすでに引退しているのだと私は思ってます。「みんなの好意で時々仕事をやらせてもらってるんだと思った方がいいな」と思って生きています。
ただ、映画を作るというのは非常にリスクのあることです。むしろリスクを求めて私たちは映画を作っていますので、映画を作り終わるころには本当に力を出し切っています。だから、もう何にもやりたくないのです。「何もできないだろう」と自分で思えるのですね。それで、毎回ああいうこと(「引退する」)を言っていましたが、もうさんざん言いすぎましたので言わないことにしています。
——ロボット関係の仕事をする人は『鉄腕アトム』の影響を受けていると言われていますが、宮崎さんの映画を見た子どもは将来どんな仕事を選ぶでしょうか?
宮崎 普通の人になってもらえればいいと思います。
——宮崎さんが成功した本当の秘密はアマチュア志向にあるように思えます。アマチュア志向であることはアニメで成功するために重要ですか?
宮崎 「商業的に成功することは、大して意味がないんだ」と本当は思っています。仕事を続けるために一定の商業的な成果を上げなければなりませんが、それは目的ではありません。
ですから私たちは「30年はお客さんに見捨てられない映画を作りたい、それができたら素晴らしい」と思っています。映画というのはそれ以上の時代を超えていくのは不可能だと私は思っています。歴史的な意味はあるかもしれないですが、30年前のフィルムを楽しむ大衆はいません。ですから、自分たちの仕事の限界と、自分たちのできる範囲の両方を忘れないようにしながら仕事をしています。
——30年以上前の映画でも、『風と共に去りぬ』や『白雪姫』など素晴らしい映画はいっぱいありますよね。そういう作品をどう思いますか? 『カサブランカ』を知っていますか?
宮崎 (『カサブランカ』は)もちろん知っています。自分にとって大切な映画は、自分の生涯の友にはなると思います。しかし今、『カサブランカ』を公開したからといって、たくさんのお客さんが来るわけじゃないという意味です。
小津安二郎の作品がありますが、それを一般公開しても日本では1つの映画館しか埋まらないでしょう。ほかの映画館でやるわけにはいきません。
私は小津安二郎をものすごく尊敬しています。それは少しも変わっていません、なぜなら私は(小津安二郎の作品を)見て感動したから。それは商業的な成功とは無関係だと思っています。
『カサブランカ』のリメイクをするのはもっと愚劣なことだと思います。映画はやっぱりその時代のものなんだと思います。
●「生きるのは大変なんだ」と思いながら映画館から帰った
——影響を受けた本や映画で忘れられないものはありますか?
宮崎 忘れられない映画はいっぱいありますね。私が映画を見た時代はアニメーションよりも、大人が見るような映画をずいぶん見ました。日本映画の全盛時代に12歳ごろに出会いました。ですから映画館から帰る時に意気揚々と帰ってくるのではなくて、「生きるのは大変なんだ」と思いながら帰ってきたのが映画の思い出です。
もちろん西部劇も時代劇も、ターザン映画もずいぶん見たのです。でも時間が経つに従ってそういうのは忘れていってしまって、(自分の心の中に)残っているのは「生きるのは大変だなあ」という映画なのです。
私はチャンバラ映画のようにワッと切り捨てたらハッピーだとか、バーンと撃ったからケリがついたとかそういう映画を作りたくない。それは「その時は口に甘いかもしれないけれども、自分の記憶には残らないだろう」という気がしています。「自分が行ったことはないけれども、見たことはないけれども、世界は美しいものなんだな」と見た子どもたちが受け止めてくれるようなものが含まれる映画を作りたいと思ってます。
——第二次世界大戦後の日本の歴史の中で、一番懐かしさを感じる時期があれば教えてください。もしなければ、日本の歴史の中でどの時期に懐かしさを感じますか?
宮崎 ずいぶん私は探していたのです。いつが一番良かったのか。どこで止まればよかったのか。
止まらないことが分かりました。
例えば昭和30年代を懐かしいという人が日本にいます。「その時期は良かったのではないか」と錯覚を起こしている人がいますが、非常に不幸な時代でした。
なぜ不幸な時代だったかというと、うっくつした欲求不満がその後に凶暴な公害をもたらすのです。日本中の海や川を汚し、山を削りゴミだらけにしました。そんなに凶暴になることは、かつての日本にはなかったことです。懐かしいと言われている時代に、それだけの欲求不満がうずまいていたのです。実際自分の子ども時代でも、周りの友人たちに学校に行けない人とか、自活しないといけないという人たちがいました。
江戸時代ならいいのか。それはもちろん惨憺(さんたん)たるものを、たくさん含んだ社会です。
「いったいどこに止まれば良かったのか」というのは、これはずいぶん探しましたが、結局「楽園というものは自分の幼年時代にしかない、幼年時代の記憶の中にだけあるんだ」ということが分かりました。親の庇護(ひご)を受け、多くの問題を知らないわずか数年の間だけれども、その時期だけが楽園になると思うようになるのではないでしょうか。
●各国記者がサインを求める
プログラム終了後、各国の記者(司会の女性までも!)がサインを求めて、宮崎監督のもとに集まる様子が見られた。その1人1人に丁寧にサインをする宮崎監督。世界中で宮崎監督の作品が受け入れられていることが伝わってくる光景だった。
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どうやら、
確実に「応援歌」ではないようだ
http://jp.youtube.com/watch?v=fn7F75stXxI
http://jp.youtube.com/watch?v=A_9EpBL5Txc&feature=related
これで明らかになるのではないか?
【参考記事】
http://blogs.yahoo.co.jp/himalayadesign/19979842.html
http://blogs.yahoo.co.jp/himalayadesign/19979827.html
http://blogs.yahoo.co.jp/himalayadesign/19979806.html
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以下(Business Media 誠 - 11月27日 12:11)
風の谷のナウシカ』『となりのトトロ』『千と千尋の神隠し』など数々の映画で、国内外から高い評価を受けている宮崎駿監督。アニメーション界の巨匠が何を思って映画を作っているのか、どんなことを憂いているのかを語った。
【保育園の写真など、他の画像を含む記事】
「悪人をやっつければ世界が平和になるという映画は作りません」
『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』などのアニメーション映画を手掛けた宮崎駿監督が11月20日、東京・有楽町の日本外国特派員協会に登場し、講演を行った。
『千と千尋の神隠し』が2003年にアカデミー賞長編アニメーション部門作品賞を獲得するなど、宮崎監督は海外でも評価が高い。内外から200人以上の記者が集まり、10分間の講演後には1時間以上も質問が投げかけられた。時には笑いながら、時には真剣な顔で宮崎監督は、最新作の『崖の上のポニョ』や現代社会に対する不安、自らの映画哲学などについて語った。
以下、宮崎監督のメッセージをご紹介しよう。
●ポニョと同時に保育園も作った
私たちが作った『(崖の上の)ポニョ』という作品は、実際にスタッフに子どもが生まれて、その子どもを見ているうちに、「この子が最初に見る映画として作ろう」ということで、それを自分たちのモチベーションにして作りました。
今、私たちの社会は潜在的な不安に満ちています。私たちの職場(スタジオ・ジブリ)でも、それは同じです。自分のかわいい子どもたちにどんな未来が待っているかということについて、非常に大きな不安を親たちが持っています。それから、子どもをどういう風に育てたらいいのかということについても大きな不安を持っています。
それで映画を作りながら、私たちはジブリで働いている人間のための保育園を作ってしまったのです。地方自治体から補助をもらうと、いろいろややこしいことがくっ付いてきますので、好きなことをやるために、まったく企業負担でやることにしました。
(その保育園は)部屋の中に階段があったり、はしごがあったり、穴が空いていたり、それから伝統的な日本の畳や床の間や障子が入っているような不思議な建物です。庭には山や大きな石や、いかにもぶつかると痛そうな石の階段や砂の坂道や、それから落っこちそうな池があります。
今年の4月から始めたのですが、子どもたちをそこに放つと、ハラハラドキドキ鳥肌が立つような恐怖を感じます。しかし、子どもたちは環境を利用して、敏しょうに転がって、泣きもしないのです。池の中に入って遊び、木の実を拾って食べ、はいながら砂の坂道を登り、滑り降り、本当に見事なものです。この保育園を作った結果、私たちは子どもの未来を不安に思うよりも、子どもたちの持っている能力に感嘆する毎日になりました。
この国に立ち込めている不安や将来に対する悲観的な考え方は、実は子どもたちには全く関係ないことなのです。つまり、この国が一番やらないといけないことは、内部需要を拡大するための橋を造ったり、道路を造ったりすることではなく、この子どもたちのための環境を整えること。常識的な教育論や日本の政府が言っているようなくだらないようなことではなくて、ナショナリズムからも解放されて、もっと子どもたちの能力を信じて、その力を引き出す努力を日本が内部需要の拡大のためにやれば、この国は大した国になると信じてます。
実際に子どもたちを取り巻いている環境は、私たちのアニメーションを含め、バーチャルなものだらけです。テレビもゲームもそれからメールもケータイもあるいはマンガも、つまり私たちがやっている仕事で子どもたちから力を奪いとっているのだと思います。これは私たちが抱えている大きな矛盾でして、「矛盾の中で何をするのか」をいつも自分たちに問い続けながら映画を作っています。でも同時にそういう子ども時代に1本だけ忘れられない映画を持つということも、また子どもたちにとっては幸せな体験なのではないかと思って、この仕事を今後も続けていきたいと思っています。
●地域社会をテーマにして
10分ほどの講演後に設けられたQ&Aセッション。内外からの30人ほどの記者たちがさまざまな質問を宮崎監督に投げかけた。
——私はイングランドの田舎に実家があります。近所は農家で、子どもたちは昼間牛や羊の面倒をみるなどの仕事をしているが、夜にはあなたの映画を見る。彼らは現実世界とバーチャル世界を区別してないように思えるのですが、あなたは現実世界とバーチャル世界の違いについてどうお考えですか?
宮崎 今のお話はとてもいいお話で、私はとてもうれしかったのですが、私が先ほど話したのは、この国ではバランスが崩れているということなのです。実際に面倒をみる羊や家畜がいるわけではなく、裸足で走り回る地面を持たないで、バーチャルなものに取り囲まれているわけなんですね。その環境を変えるために、内部需要の拡大を図るべきだと私は思っています。
子どもたちが字を覚える前に覚えなければいけないことがいくつかあって、これは石器時代からやってきたことです。自分で火をおこして、燃やし続けて消すことができる、水の性質を理解している、木に登れる、縄でものをくくれる、針と糸を使える、ナイフを使える。これだけは国が責任をもって子どもたちに字を教える前に教えなければいけないと思っています。
本当は国がやらなくても両親や地域社会がやるべきなんですけど、地域社会をこの国は経済成長のために破壊してしまったので、それを時間をかけて取り戻さければならないと強く思ってます。
——仮想世界が現実に出てきたともいえる「三鷹の森ジブリ美術館」を造られましたが、ほかに何か造ろうと考えておられますか?
宮崎 私たちの経済力と密接な関係がありすぎて、予測することは不可能です。空想していることだけはいっぱいあるのですが、それができるかできないかはまだ分かりません。でも1つ、「地域の子どもが集まって来るような、親があんまり喜ばない駄菓子屋を作りたい」ということは考えています。
——子どもたちをナショナリズムから解放するということですが、今後は地域社会に根ざした映画を作るつもりか、グローバルな映画を作るつもりかどちらですか?
宮崎 「世界の問題は多民族にある」という考え方が根幹にあると思っています。ですから少なくとも自分たちは、悪人をやっつければ世界が平和になるという映画は作りません。
「あらゆる問題は自分の内面や自分の属する社会や家族の中にもある」ということをいつも踏まえて映画を作らなければいけないと思っています。
「自分の愛する街や愛する国が世界にとって良くないものになるという可能性をいつも持っているんだ」ということを、私たちはこの前の戦争の結果から学んだのですから、学んだことを忘れてはいけないと思っています。
——宮崎さんの映画には、環境問題について示唆する場面が多く登場しているように思えます。宮崎さんは日本の環境問題の現状について楽観的ですか、悲観的ですか?
宮崎 ものすごく悲観的ですね。その後に楽観的なものが来るだろうと思っていますけど。
(環境問題については)とことんひどくなるまで学ばないだろうと思います。この国は生産するよりも、消費する方が多い国なんです。この国で生産できるものは3200万人までの人口しか養えません。残りの分は、自動車を作ったりアニメーションを作ったりして稼いでるわけなんですね。食料の自給率が低いとか、自分が着ている下着が全部中国製であるとか、そういうことがこの国の不安の根幹にあるんだと私は思っています。
その構造を劇的に変えることは不可能ですから、少しずつ少しずつ変えようとしたら、随分長い年月がかかります。少しずつ変えていっても、現代の文明の終焉までに滑り込みセーフになるのかどうか、私はあまり自信がありません。ただ個人的には、自分と自分の周辺に関しては最大限の努力をしていくつもりです。
——日本の将来は悲観的ということですが、60年前の悲惨な状況から経済大国にまで成長したということを考えると、そんなに悲観的になる必要はないのではないでしょうか?
宮崎 経済の恩恵を得た結果、その次のステップに「どういう風に進むか」ということだと私は思います。次のステップに進む時に、大変多くの知恵と自制心がいるのだと思います。
生産者であることと消費者であることは同時でなくてはいけないのに、私たちの社会はほとんどが消費者だけで占められてしまった。生産者も消費者の気分でいるというのが大きな問題だと思います。
それは自分たちの職場で感じます。人を楽しませるために自分たちの職業で精いっぱい力を尽くすのではなく、それもやるけれど、ほとんどの時間は他人が作ったものを消費することによって楽しもうと思って生きていますね。
それは僕のような年寄りから見ると、非常に不遜なことであるという風に、真面目に作れという風に、力を込めて作れという風に(感じ)、「すべてのものをそこ(作品)に注ぎ込め」と怒り狂っているわけです。だから全体的なモチベーションの低下がこの社会を覆っているんだと思います。
●海外の巨匠と比較
——最近日本ではアニメや漫画が「ソフトパワー」と言われてますが、この言葉をどう受け止めていますか。自分の映画はソフトパワーの一種だと思っていますか?
宮崎 スタジオの中で私たちは、「海では蒸気船はなくなりましたが、ディーゼル機関やタービンを持った船がいっぱい走り回っている。しかし、1隻ぐらいは帆船のままで航海してもいいのではないか」と話しています。(現代の経済観念である)ソフトパワーという言葉にくくられたくないと思っています。
——麻生首相がアニメ・漫画好きと公言されていますが、これをどうお考えになっていますか?
宮崎 恥ずかしいことだと思います。それはこっそりやればいいことです。
——ジブリでは手描きなどの技法を採用されています。ピクサーなどの海外のアニメーションスタジオの手法などはどうご覧になっていますか?
宮崎 私はピクサーの(ジョン・)ラセター※とは友人です。かなり深い関係の友人です。それから英国のアードマン(・アニメーションズ)のニック・パーク※※も友人です。彼らが努力して作った作品を見た時に、彼らの努力を一番理解できる人間だと思っています。彼らの努力や恐怖、恐怖というのは「この作品が受け入れられるのか、受け入れられないのか」という恐怖ですが、そういうことも含めて共有できます。
私たちが鉛筆で描くことを、ラセターは喜ぶと思いますよ。「お前は絵を描けるんだから絵を描け」と前から言ってましたから。だから、そういう風に考えて、友人たちが作っている世界(を観ると)、いろんなところでそれぞれ頑張っているんだなあということです。
※ジョン・ラセター……『トイ・ストーリー』シリーズの監督
※※ニック・パーク……『ウォレスとグルミット』シリーズの監督
——ウォルト・ディズニーと比較する意見についてどう思われますか?
宮崎 (ウォルト・ディズニーとは)違います。私はプロデューサーではありません。ウォルト・ディズニーは非常にすぐれたプロデューサーでした。それでウォルトナインズ※という非常にすぐれたアーティストたちと仕事をすることができた。彼らの無限な信頼を得ていた人間だと思いますね。
※ウォルトナインズ……ウォルト・ディズニー・スタジオで中心的な役割を果たしていたアニメーター9人のこと。ナイン・オールドメンとも言われる。
ウォルト・ディズニーとウォルトナインズとの関係は、あの時代にしかありえなかったような非常に濃密な幸せな関係だったと思います。私たちは私たちなりに(そうした幸せな関係を)持っていますが、比較することはできません。1930年代にアニメーションを確立したという彼らの誇りと、それを使って商売をやってきたその後の人間たちとではずいぶん違うんだということです。
●ユーゴスラビアの内戦が『紅の豚』のストーリーにも影響を与えた
——作品を作るときに、外国人でも共感できる要素を入れることは考慮していますか?
宮崎 実は何も分からないのです。私は自分の目の前にいる子どもたちに向かって映画を作ります。子どもたちが見えなくなってしまうときもあります。それで中年に向かって映画を作ってしまったりもします。
自分たちのアニメーションが成り立ったのは、日本の人口が1億を超えたからです。日本国内でペイラインに達する可能性を持つようになったからなのですが、国際化というのはボーナスみたいなもので、私たちにとっていつも考えなければならないのは、日本の社会であり、日本にいる子どもたちであり、周りの子どもたちです。それをもっと徹底することによって、世界に通用するぐらいなある種の普遍性にたどり着けたら素晴らしい。
——宮崎さんの映画の舞台設定には、欧州、特に中欧や東欧を思い起こさせるものがあります。忙しいスケジュールの中で、世界中を旅する時間があるのかと心配しますが、舞台設定のアイデアはどういったところから思い付かれるのですか?
宮崎 (日本と欧州との間に)もし共通しているものがあるとしたら、人間の社会は似ているところがいっぱいあるんだということだと思うのです。私があえて日本の西の方の世界を中心にして映画を作っているのは、自分が旅行をして発見があったからです。
東京というのは開拓村なんですね。日本の歴史で言えば、新しいところなんです。ひょっとすると今ここにいるところは海の上だったかもしれません。
答えになっていませんかね(笑)。インタビューを受けるのは苦手ですけども、旅行は好きです。着てくる服装を制限するようなところには行きたくないです。
——実際に行った場所から影響を受けていますか?
宮崎 自分が行った場所には全部影響を受けています。行ってすぐ素晴らしいと思ってすぐ映画にしているわけではありません。何年も経ってから映画にしています。アイルランドも素晴らしかったし、エストニアも素晴らしかったし、英国も素晴らしかった。映画にしていませんがフランスに行ってとても素敵な体験をしましたし、クロアチアとかに行って映画を作ってみたいとか思ったり……いい加減なことを言ってすみません。
——クロアチアに実際に行っていないのに、どうやってそこを題材にした映画を作ったのですか?
宮崎 『ポルコ・ロッソ(紅の豚)』※でアドリア海を舞台にした時に、われらが主人公はクロアチアにある島のどこかに隠れ家を持っているように設定したのですが、見に行くことができませんので、航空写真を穴があくほどいっぱい見て勝手にやらせてもらいました。「違っているんじゃないかな」と内心困ってはいたんですけど。
※『紅の豚』……1920年代のイタリア・アドリア海を舞台とした、飛行艇を乗り回す「空賊(空中海賊)」と賞金稼ぎの「ブタ」の飛行艇乗りとの物語。
ついでに申しますと、作っている時にユーゴスラビアで内戦が始まりまして、クロアチアの都市が砲撃されるということがありました。その結果、私たちの映画も長くなって、ちょっと重い内容を持つようになったのですが、今のようにクロアチアが平和になったのはとてもうれしいことです。
『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』などのアニメーション映画を手掛けた宮崎駿監督が11月20日、東京・有楽町の日本外国特派員協会に登場、最新作の『崖の上のポニョ』や現代社会に対する不安、自らの映画哲学などについて語った。
【スタジオ・ジブリの写真など、他の画像を含む記事】
前編は現在憂いていることや海外のクリエイターとの比較などの話だったが、後編では宮崎監督の作品や好きな映画などについての質疑応答を紹介する。
●作品が分かりにくくなった理由
——『崖の上のポニョ』でデボン紀を題材とされた理由はなぜですか?
宮崎 その前のカンブリア紀に魚はいませんから、魚がいっぱいいるのはデボン紀かなと。甲冑魚というのは私が子どものころ、とてもドキドキした記憶があるんです。だからデボン紀にしたのです。
——初期の作品に比べて、最近は『崖の上のポニョ』のようにいろいろと解釈できるような作品が多いのはなぜですか?
宮崎 自分の変化もあると思いますが、もう1つは世界がますます複雑になったため、現実の世界を追いかけていくうちに映画が複雑になってしまったのです。
(分かりやすい作品は)DVDにもなっていませんし、一切外に出ていない(三鷹の森ジブリ)美術館用の短編があります。そこで今まで6本ほど作った短編を見ていただければ、極めてシンプルな幸せな世界があると思います。
——主人公が若い女の子ばかりなのはなぜですか? 今後もこの傾向を続けていくおつもりですか?
宮崎 今、スタジオの若いスタッフに、「君たちは8歳の男の子を主人公にした映画を作らなければならない」と私は言っています。それはとても難しい作業なのです。
なぜなら8歳の少年は悲劇的にならざるを得ないものを強く持っているからです。知らなければいけないことが山ほどありすぎ、身に付けなければいけない力はあまりにも足りなくて……つまり女の子たちとは違うのです。少女というのは現実の世にいますから、極めて自信たっぷりに生きていますけど、男の子たちはちょっと違うのだと思います。
それは私の不幸な少年時代の反映なのかもしれませんが、若いスタッフには「君たちの幸せな少年時代を反映させて、少年を主人公に映画を作れ」と言ってあります。
その年齢の少年たちは実に簡単に世の中のワナに引っかかるのです。つまらないカードを集めたり、つまらないラジコンの車に夢中になったり、あっというまに商業主義のえじきになってしまって、なかなか心の中を知ることができないのです。
——息子さん(宮崎吾朗氏)もスタジオ・ジブリでアニメの監督(『ゲド戦記』)をされていますが、将来的には息子さんを後継者としてお考えですか?
宮崎 非常に微妙な問題です。自分の息子だからといってえこひいきはしません。彼はこの次に本当に試されるのだと思います。
●何時間鉛筆を握っていても疲れない腕がない
——資金を集めること、キャラ作り、ストーリー作り、アニメ制作で一番大変なのはどれですか?
宮崎 お金集めは鈴木(敏夫)プロデューサーがやってくれるので何の心配もいりません。つまり、自分の才能の不足に苦しむのだと思います。
1日4時間しか寝なくてもスッキリしている頭とか、机の上の細かい絵がよく見える目とか、何時間指を動かしていても鉛筆を握っていても疲れない腕とかそういうものがないのです。
——アニメスタジオの労働環境は劣悪らしいですが、日本の今のアニメ業界についてどう思いますか?
宮崎 日本の一般的なアニメーションの状態を論ずる状況に私はないので、自分のことだけ話します。
「アニメーターの労働条件があまりにもひどい」というのは日本で一般的だと思いますが、私たちはまともにすべきだと努力しました。でも、自分たちがカバーできる範囲はとても狭いのです。
(2009年4月に)新人アニメーターたちが(スタジオ・ジブリに)入ります。彼らは、通常の給料がもらえるはずです。ただ、適性があるかないかというのは不幸にしてすぐには分かりませんが、私たちは東京の本郷の宿屋に泊まって、毎日出勤してもらって適性能力を調べるためのテストを10日間にわたってやりました。
その結果、来年の4月から20人のアニメーターが職場に参加することになります。その養成のために、養成用作品を作りますが、そのあとも20人だけではなくて、続けて(採用して)いきたいと思っています。私たちは外部依存をしたくない。労働条件の差を利用して映画を作りたいとは思いませんので、何とかして自分たちのリスクで映画を作っていきたいと思っています。
全国から若者たちが集まってきますが、東京で1人暮らしを始めて、勤めをするのはとてもストレスが強いので、ちょっと東京を離れた別の場所に養成用スタジオを作りました。
●『となりのトトロ』は“絶対お客が来ない映画”だった
——映画が経済的にうまくいかなかった経験はありますか?
宮崎 ある時期まで「自分たちのかかわるアニメーションは経済的に成功しない」という自信を持っていた時期があります。それはそういうものだと思っただけで、自分たちの方針を変えたいとは思いませんでした。
『となりのトトロ』※という作品の企画が通った時も、奇跡的に針の穴を通すような偶然がいくつか重なって実現したんです。あの映画はそれまでの日本映画の常識で言えば、“絶対お客が来ない映画”だったわけですから。
※となりのトトロ……田舎へ引っ越してきた姉妹と、不思議な生き物「トトロ」との交流を描いた物語。
——自分の作りたいものと、売れるものを作ってほしいと言われるプレッシャーとのジレンマを感じたことはありますか?
宮崎 アニメーションを作るのは個人的な努力だけではなくて、本当に面倒臭い仕事をいっぱいやらないといけないのです。個人的にも本当に膨大な作業量がなくてはいけないのです。それで「お金がもうからなくてもいい」というのは、嫌なことです。だから「これはもうからないな」と思ったものは手を出しません。みんなで不幸になる必要はないですからね。
「みんなでやってよかった」というものを探す責任を私は背負ってアニメーションスタジオにいますから、もしそれを背負わなくていいというのならアニメーションスタジオにいなくてもいいんじゃないかと思います。だからジレンマはありません。
——宮崎さんは、これまで何度も映画の監督を引退するつもりだとおっしゃられていました。どうしてお考えが変わったのですか?
宮崎 もうすでに引退しているのだと私は思ってます。「みんなの好意で時々仕事をやらせてもらってるんだと思った方がいいな」と思って生きています。
ただ、映画を作るというのは非常にリスクのあることです。むしろリスクを求めて私たちは映画を作っていますので、映画を作り終わるころには本当に力を出し切っています。だから、もう何にもやりたくないのです。「何もできないだろう」と自分で思えるのですね。それで、毎回ああいうこと(「引退する」)を言っていましたが、もうさんざん言いすぎましたので言わないことにしています。
——ロボット関係の仕事をする人は『鉄腕アトム』の影響を受けていると言われていますが、宮崎さんの映画を見た子どもは将来どんな仕事を選ぶでしょうか?
宮崎 普通の人になってもらえればいいと思います。
——宮崎さんが成功した本当の秘密はアマチュア志向にあるように思えます。アマチュア志向であることはアニメで成功するために重要ですか?
宮崎 「商業的に成功することは、大して意味がないんだ」と本当は思っています。仕事を続けるために一定の商業的な成果を上げなければなりませんが、それは目的ではありません。
ですから私たちは「30年はお客さんに見捨てられない映画を作りたい、それができたら素晴らしい」と思っています。映画というのはそれ以上の時代を超えていくのは不可能だと私は思っています。歴史的な意味はあるかもしれないですが、30年前のフィルムを楽しむ大衆はいません。ですから、自分たちの仕事の限界と、自分たちのできる範囲の両方を忘れないようにしながら仕事をしています。
——30年以上前の映画でも、『風と共に去りぬ』や『白雪姫』など素晴らしい映画はいっぱいありますよね。そういう作品をどう思いますか? 『カサブランカ』を知っていますか?
宮崎 (『カサブランカ』は)もちろん知っています。自分にとって大切な映画は、自分の生涯の友にはなると思います。しかし今、『カサブランカ』を公開したからといって、たくさんのお客さんが来るわけじゃないという意味です。
小津安二郎の作品がありますが、それを一般公開しても日本では1つの映画館しか埋まらないでしょう。ほかの映画館でやるわけにはいきません。
私は小津安二郎をものすごく尊敬しています。それは少しも変わっていません、なぜなら私は(小津安二郎の作品を)見て感動したから。それは商業的な成功とは無関係だと思っています。
『カサブランカ』のリメイクをするのはもっと愚劣なことだと思います。映画はやっぱりその時代のものなんだと思います。
●「生きるのは大変なんだ」と思いながら映画館から帰った
——影響を受けた本や映画で忘れられないものはありますか?
宮崎 忘れられない映画はいっぱいありますね。私が映画を見た時代はアニメーションよりも、大人が見るような映画をずいぶん見ました。日本映画の全盛時代に12歳ごろに出会いました。ですから映画館から帰る時に意気揚々と帰ってくるのではなくて、「生きるのは大変なんだ」と思いながら帰ってきたのが映画の思い出です。
もちろん西部劇も時代劇も、ターザン映画もずいぶん見たのです。でも時間が経つに従ってそういうのは忘れていってしまって、(自分の心の中に)残っているのは「生きるのは大変だなあ」という映画なのです。
私はチャンバラ映画のようにワッと切り捨てたらハッピーだとか、バーンと撃ったからケリがついたとかそういう映画を作りたくない。それは「その時は口に甘いかもしれないけれども、自分の記憶には残らないだろう」という気がしています。「自分が行ったことはないけれども、見たことはないけれども、世界は美しいものなんだな」と見た子どもたちが受け止めてくれるようなものが含まれる映画を作りたいと思ってます。
——第二次世界大戦後の日本の歴史の中で、一番懐かしさを感じる時期があれば教えてください。もしなければ、日本の歴史の中でどの時期に懐かしさを感じますか?
宮崎 ずいぶん私は探していたのです。いつが一番良かったのか。どこで止まればよかったのか。
止まらないことが分かりました。
例えば昭和30年代を懐かしいという人が日本にいます。「その時期は良かったのではないか」と錯覚を起こしている人がいますが、非常に不幸な時代でした。
なぜ不幸な時代だったかというと、うっくつした欲求不満がその後に凶暴な公害をもたらすのです。日本中の海や川を汚し、山を削りゴミだらけにしました。そんなに凶暴になることは、かつての日本にはなかったことです。懐かしいと言われている時代に、それだけの欲求不満がうずまいていたのです。実際自分の子ども時代でも、周りの友人たちに学校に行けない人とか、自活しないといけないという人たちがいました。
江戸時代ならいいのか。それはもちろん惨憺(さんたん)たるものを、たくさん含んだ社会です。
「いったいどこに止まれば良かったのか」というのは、これはずいぶん探しましたが、結局「楽園というものは自分の幼年時代にしかない、幼年時代の記憶の中にだけあるんだ」ということが分かりました。親の庇護(ひご)を受け、多くの問題を知らないわずか数年の間だけれども、その時期だけが楽園になると思うようになるのではないでしょうか。
●各国記者がサインを求める
プログラム終了後、各国の記者(司会の女性までも!)がサインを求めて、宮崎監督のもとに集まる様子が見られた。その1人1人に丁寧にサインをする宮崎監督。世界中で宮崎監督の作品が受け入れられていることが伝わってくる光景だった。
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どうやら、
確実に「応援歌」ではないようだ
http://jp.youtube.com/watch?v=fn7F75stXxI
http://jp.youtube.com/watch?v=A_9EpBL5Txc&feature=related