頼山陽と田能村竹田
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『誠之館記念館所蔵品図録』
“足利(室町幕府)は鞆で興り鞆で滅びた”
“山紫水明”
頼山陽
生:安永9年(1780年)12月27日、大坂生まれ
没:天保3年(1832年)9月23日、享年53歳、京都東山長楽寺に葬る
文化8年(1811年)3月下旬 32歳 大坂の持明院に滞在の竹田に初対面し、意気投合
文化11年(1814年)10月15日 35歳 鞆で田能村竹田に会う
文政7年(1824年)1月16日 45歳 入京の田能村竹田と大坂へ
天保2年(1831年)3月12日 52歳 田能村竹田、雲華上人らと嵐山に遊ぶ
頼山陽LOG
文人画とは
中国の絵画様式を取り入れながら自然発生的に生まれた日本独自の呼称。
江戸時代後半(十八世紀)に入り展開を始め十九世紀(文化・文政・天保期)を中心に田能村竹田、頼山陽など優れた画人が出現した。
細く変化に富んだ墨絵を積み重ねて描く穏やかな画法は幕末から明治期の美術界に大きな影響を与えた。

「通信使船上関来航図」田能村竹田画
平野観桜に参加した画人・浦上春琴(1779-1846)は安永8年生まれで山陽の一歳年長であるがほぼ同い年だ。備中鴨方の大画人・浦上玉堂の息子である。
よそ者山陽が京都で塾を開業しようとしたとき、既に地盤を築いていた同業の文人・学者たちは彼を排斥した。山陽は思わぬ苦戦を経験する。春琴も時を同じくして文化8年(1811)京都で画塾を開こうとして同様の苦労を味わっており、他業種同士の二人が労をねぎらいあって仲良くなった、という面はあるだろう。生活費に困った書家と画家はコンビを組んで作品を売りに行ったこともあるという。春琴を通じて山陽は田能村竹田との交友を深めることができた。先の「耶馬溪図巻」の仕上げについても春琴のアドバイスがあったかもしれない。この京都途中割り込み組みの文人と画家は生存中の交友だけでなく、現在でも同じ長楽寺に仲良く眠っている。