福禅寺


野々口立圃(1595)による『備後國鞆之浦観音堂之縁起(東京芸術大学所蔵)』には
「承平の比、備後国沼隈郡に長者一人あり~」
福禅寺の始まりを記している
その長者の名は新庄太郎といい、明子という美しい娘を持つ。
秀でた才能を取り揃えた彼女は、村人から
「天女の再生」
「菩薩の応現」
と、最大級の称賛を贈られており、その噂は備後一円を駆け巡り村上天皇の耳にとまる。
天皇は明子を妃として迎えることを決めた。
「たね知らぬ 深山さくらも 時しあらば
ちかきまがきに うつしてぞ見る」
村上天皇が初めて明子と会った時に詠んだ歌だ。
それに対し、明子はこう返す
「花もなき みやま木なれど この春は
まがきのうちの 香にほひける」
この後、明子は天皇からの寵愛を受けることとなる。
千手観音信仰だった明子は、ある日天皇にこうお願いをした。
「安産と先祖代々の人々が極楽浄土へ行けるよう、
故郷に寺を建立しとうございます」
天皇はその話を聞き入れ、天台宗空也派の開祖・空也上人を呼び、
空也上人は備後一帯を旅し、船上から鞆の浦を眺める。
波打ち際に岩石が直下立ち、観世音菩薩が住むといわれる伝説の山・補陀落の浮境に似たこの景色に勝るところなし。
とこの地に寺を建てることとなった。
客殿が対潮楼と呼ばれる随分前の話である。
【野々口立圃】
文禄4年(1595)京に生まれた野々口立圃は、温雅でユーモアのある文筆家として広く知られている。福山藩主の招きにより、慶安4年(1651)から、寛文2年(1662)まで福山に滞在し、藩士や町人衆に弟子や同好者を得て、福山における文学の普及に大きな功績を残した。 指定物件は、立圃が福山藩滞在中に水野時代の風物・人物・歴史等の描写を巧みな筆致で表現したものである。
【村上天皇】
延長4年6月2日(926年7月14日)- 康保4年5月25日(967年7月5日)、在位:天慶9年4月28日(946年5月31日) - 康保4年5月25日(967年7月5日))は、平安時代中期の天皇。第62代。諱は成明(なりあきら)。