引き続き、数週間前に行って来た
『ハワイ・プランテーション・ビレッジ』のお話。

プランテーションの規模は、アメリカ本土で
砂糖の需要が拡大するにつれ、巨大化していきます。

1848年のカリフォルニア・ゴールドラッシュや
1861年の南北戦争を経て、1875年には互恵条約
(ハワイからアメリカ本土へ砂糖の非課税輸出を認めた条約)が
結ばれることとなり、プランテーション経営者達は
一挙に資本を巨大化しようしていたのです。

1852年から1946年にかけて
総数にして、実に約40万人もの労働者が
ハワイのサトウキビ農園で働いていたと知り
本当に驚くばかりです。



$nene流 ハワイ暮らし




契約期間を終え、帰国した人達も沢山いたでしょうが
そのまま、ここに残った人も多かったはず。

英語を母国語としない人達が
ここ、ハワイで生活していくのに便利なように
ピジン英語という簡潔な言語が
ハワイにはひろまったのも納得です。

ハワイのように、本当に沢山の移民が生活する
面白い場所は、そんなに沢山はないでしょう。

それも、このように色々な国からやってきた労働者の
歴史を背景に出来上がった独特な文化ですよね。

さて、こちらは、フィリピン人の労働者が住んでいた家。



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お家の庭に植えてある木には
『爆弾』と呼ばれる実がなっていました。

勿論、正式な名称ではありませんが
形が『爆弾』に似ているため、そう呼ばれているそう。

食べられるそうなのですが
あまり美味しくないそうです。

この頃には、トイレ等もかなり近代化してきていますね。



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この先には、万屋のような小さなお店や
医療施設、マネージャーのオフィスなどがあります。



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プランテーションが始まった当初は
お給料代わりに、プランテーション内で使用出来る
チケットを配られていた様ですが
そのシステムは、やがて廃止され
労働者は月給を貰って生活するようになります。

それでも、こちらのお店ではつけ払いで
お買い物をして、お給料から天引きされるという
システムがあったそうです。

プランテーション内の労働者に
外の世界をあまり見せたくないという
プランテーション管理者側の考えがあったそうです。



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病院や歯医者さんの存在は大変貴重でしたが
プランテーション管理者側が
お医者さんにお給料を払うのを惜しんで
労働者のお給料を少し減らし、その分を
お医者様のお給料に回したこともあったそうです。

プランテーションの敷地全体を見下ろすことの出来る
一番高い場所に、マネージャーの家はあったのだそう。



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威厳を守りたかったマネージャー達は
決して労働者の人達と親しくなる事は
なかったのだそうです。



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サトウキビ産業は、こうして
ハワイの財政の屋台骨を支え
巨大な収益をもたらしました。

そして、その大半は、経営者や資本家
政治家の大半を占めていた
白人集団に独占されたというのも事実です。

この様にして、ハワイに来た移民の人々の歴史と
文化が、今のハワイを作ったと言っても過言ではありません。

けれど、こうした移民の人々が
一市民として、アメリカで正当な権利を獲得するには
それはまた大変な苦労をしたのだそうです。

集合施設の中に置かれていた、こちらの図。



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どの国から、どれくらいの人数の労働者が
プランテーション労働者として
移民してきたのか書かれていました。

数字は覚えていませんが
日本人の数が圧倒的に多かったのを記憶しています。

今、私達がハワイに来るのとは
全く違う気持ちで、ここを訪れたのでしょうね。

想像も出来ない世界です。



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でも、そういう人達が居たからこそ
今のハワイは、私達日本人にとって
とても親近感のわく場所なのかも知れませんね。

本当は、もっと沢山写真も撮ったのですが
私なりに厳選したものだけを載せることにしました。

色々と考えさせられる施設ですが
今のハワイに、こうして色々な国の人達が
混ざり合って生活している背景を知る上で
とても貴重な施設だと思います。



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興味のある方は、是非一度訪れてみて下さい。

それでは、また。




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