前回に引き続き、数週間前に行って来た
『ハワイ・プランテーション・ビレッジ』のお話。
1850年に設立された、王立ハワイ農業協会は
減少しつつあるハワイ人に代わる労働力として
外国人労働者として導入を始めました。
しかし、1880年代に入ると
中国人のハワイ全体に占める人口が
4分の1にもなってしまった為に
中国移民を抑制し、代わりにポルトガル人や
その他の国からの移民を
雇い入れるようになりました。
ここには、その様にして
1800年代~1940年代にかけてハワイへやって来た
中国人、ポルトガル人プエルトリコ人、日本人
沖縄人、フィリピン人、朝鮮人などの
農園労働者が暮らした建物が復元されています。
中国人会議所等の次に見たのが
1918年頃のポルトガル人の家の復元。
ポルトガル人労働者と呼ばれた人々は
アゾレス諸島などのポルトガルの植民地から来た人達でした。
契約期間が終わると本国へ帰ってしまった
中国人労働者と違って
大半の人達が、永住を前提にしてハワイへやって来ました。
白人だった為に、多くの人達が
現場責任者の地位に就く事が出来たのだそうです。
小さい木製の冷蔵庫。
上の段に氷を入れて、下を冷やすタイプかな?
そして次は、プエルトリコ人の家の復元。
プエルトリコ人労働者もポルトガル人労働者同様
永住を目的として、家族単位で移住。
当時にしては、珍しいコーヒーミルなども
使用していたそうです。
とても貧しかった為に、赤ちゃんを
お米の袋で作ったハンモックに寝かせたりしたのだそう。
安全性が気になるところですが
平均気温が比較的高い場所柄なのかしら?
栄養面や衛生面でも、あまり良くなかったようで
1歳まで成長する子は多くはなかったのだそうです。
そして、次が1910年頃の日本人長屋と
1930年頃の日本人の家。
ここを見て、私の印象に残ったのものの一つが
洗濯機(脱水機かな?)でした。
ここを見ていると、比較的どこの国の人達も
洗濯板を利用して、お洗濯をしていた様ですが
脱水機なんて便利なものが存在していた事。
そして、そういう贅沢品のようなものを
購入することが出来た事が何だか不思議でした。
それから、もう一つ。
綺麗に片付けられているけれど
出しっ放しのお布団。
どの国の人も同じような形の家を提供されていたようなので
押し入れというものが無かったせいなのか
畳まれた布団が、床に置いてあったのが
日本人としては、やはりとても違和感がありました。
でも、実際にもこうしてお布団は
床に畳まれて置いておいたのでしょうね。
英語と日本語で書かれたカレンダー。
宗教的な言葉が書いてある所をみると
クリスチャンになっていた日本人もいたのでしょう。
きちんと揃えられた下駄などの履物。
アメリカでは、通常
お家の中でも靴を履いているのですが
ハワイでは、家にあがる前には必ず靴を脱ぎます。
これは、プランテーション時代に日本人が持ち込んだ
靴を脱いで家にあがるという習慣が
ハワイの文化として根付いたからだと言われています。
当時プランテーションでは、マネージメントの人達が
労働者の名前を覚える事が出来ず、名前では呼ばず
『バンゴー』と言う金属の番号札を与えられて
これを身分証代わりに使っていたそうです。
これも日本語の番号から来たものです。
ハワイで生活するようになってから知ったのですが
英語でない言葉を英語に交えて使う事が多々あります。
私が『えっ?』と思った言葉の一つが『ヒバチ』。
ロコのお友達に『今度、うちでヒバチする?』と聞かれ
意味がわからず、目が点に…。
何を言っているのか判らなかったので
訪ねてみると、なんと『BBQ』のことでした(汗)。
ヒバチ=火鉢だったのです。
難し過ぎる…。
それから良く聞くのが『パウ』。
ハワイの言葉で『終わり』という意味です。
もう10数年も前の話になりますが
旦那とレストランに言った時に
『Are You パウ?』と聞かれ
私は『は?』と思いつつも『あなたは、パウさんですか?』と
聞かれているのだと解釈し『ノー』と答えると
旦那とウェイターさんが変な顔をしたのです。
不思議に思ったので、聞いてみると
お皿が空になっていたので『もうお済みですか?』と
言う意味で聞いたのだと言うのです。
それなのに、私が『いいえ』と答えたから
2人とも不思議に思ってしまったのでしょうね。
例えたらキリがありませんが
ハワイには、アメリカ本土では絶対に通用しない
不思議な言葉が日常的に使われています。
それも、こんな風にプランテーション時代
色々な国の人がハワイに流入し
様々な人達の文化などが定着していったからなのでしょうね。
さて、またまた長くなりましたので
今回もこの辺でおしまい。
それでは、また。



お願いね。
『ハワイ・プランテーション・ビレッジ』のお話。
1850年に設立された、王立ハワイ農業協会は
減少しつつあるハワイ人に代わる労働力として
外国人労働者として導入を始めました。
しかし、1880年代に入ると
中国人のハワイ全体に占める人口が
4分の1にもなってしまった為に
中国移民を抑制し、代わりにポルトガル人や
その他の国からの移民を
雇い入れるようになりました。
ここには、その様にして
1800年代~1940年代にかけてハワイへやって来た
中国人、ポルトガル人プエルトリコ人、日本人
沖縄人、フィリピン人、朝鮮人などの
農園労働者が暮らした建物が復元されています。
中国人会議所等の次に見たのが
1918年頃のポルトガル人の家の復元。
ポルトガル人労働者と呼ばれた人々は
アゾレス諸島などのポルトガルの植民地から来た人達でした。
契約期間が終わると本国へ帰ってしまった
中国人労働者と違って
大半の人達が、永住を前提にしてハワイへやって来ました。
白人だった為に、多くの人達が
現場責任者の地位に就く事が出来たのだそうです。
小さい木製の冷蔵庫。
上の段に氷を入れて、下を冷やすタイプかな?
そして次は、プエルトリコ人の家の復元。
プエルトリコ人労働者もポルトガル人労働者同様
永住を目的として、家族単位で移住。
当時にしては、珍しいコーヒーミルなども
使用していたそうです。
とても貧しかった為に、赤ちゃんを
お米の袋で作ったハンモックに寝かせたりしたのだそう。
安全性が気になるところですが
平均気温が比較的高い場所柄なのかしら?
栄養面や衛生面でも、あまり良くなかったようで
1歳まで成長する子は多くはなかったのだそうです。
そして、次が1910年頃の日本人長屋と
1930年頃の日本人の家。
ここを見て、私の印象に残ったのものの一つが
洗濯機(脱水機かな?)でした。
ここを見ていると、比較的どこの国の人達も
洗濯板を利用して、お洗濯をしていた様ですが
脱水機なんて便利なものが存在していた事。
そして、そういう贅沢品のようなものを
購入することが出来た事が何だか不思議でした。
それから、もう一つ。
綺麗に片付けられているけれど
出しっ放しのお布団。
どの国の人も同じような形の家を提供されていたようなので
押し入れというものが無かったせいなのか
畳まれた布団が、床に置いてあったのが
日本人としては、やはりとても違和感がありました。
でも、実際にもこうしてお布団は
床に畳まれて置いておいたのでしょうね。
英語と日本語で書かれたカレンダー。
宗教的な言葉が書いてある所をみると
クリスチャンになっていた日本人もいたのでしょう。
きちんと揃えられた下駄などの履物。
アメリカでは、通常
お家の中でも靴を履いているのですが
ハワイでは、家にあがる前には必ず靴を脱ぎます。
これは、プランテーション時代に日本人が持ち込んだ
靴を脱いで家にあがるという習慣が
ハワイの文化として根付いたからだと言われています。
当時プランテーションでは、マネージメントの人達が
労働者の名前を覚える事が出来ず、名前では呼ばず
『バンゴー』と言う金属の番号札を与えられて
これを身分証代わりに使っていたそうです。
これも日本語の番号から来たものです。
ハワイで生活するようになってから知ったのですが
英語でない言葉を英語に交えて使う事が多々あります。
私が『えっ?』と思った言葉の一つが『ヒバチ』。
ロコのお友達に『今度、うちでヒバチする?』と聞かれ
意味がわからず、目が点に…。
何を言っているのか判らなかったので
訪ねてみると、なんと『BBQ』のことでした(汗)。
ヒバチ=火鉢だったのです。
難し過ぎる…。
それから良く聞くのが『パウ』。
ハワイの言葉で『終わり』という意味です。
もう10数年も前の話になりますが
旦那とレストランに言った時に
『Are You パウ?』と聞かれ
私は『は?』と思いつつも『あなたは、パウさんですか?』と
聞かれているのだと解釈し『ノー』と答えると
旦那とウェイターさんが変な顔をしたのです。
不思議に思ったので、聞いてみると
お皿が空になっていたので『もうお済みですか?』と
言う意味で聞いたのだと言うのです。
それなのに、私が『いいえ』と答えたから
2人とも不思議に思ってしまったのでしょうね。
例えたらキリがありませんが
ハワイには、アメリカ本土では絶対に通用しない
不思議な言葉が日常的に使われています。
それも、こんな風にプランテーション時代
色々な国の人がハワイに流入し
様々な人達の文化などが定着していったからなのでしょうね。
さて、またまた長くなりましたので
今回もこの辺でおしまい。
それでは、また。



お願いね。

















