正しいことを語らない人間がいる。
間違っていると分かっていても、
あえて言葉にしない。
立場を表明せず、
議論にも加わらない。
そうした態度は、
しばしば誤解される。
逃げている、
責任を放棄している、
安全圏にいる。
だが、
正しさを語らない理由は、
必ずしも弱さから来るものではない。
正しさには、
コストがある。
発言すれば、
関係が変わる。
空気が変わる。
自分の役割が固定される。
そのコストを、
自分だけでなく、
周囲にまで波及させる可能性がある。
だから語らない。
語れないのではなく、
選んでいない。
正しさを語ることは、
正義を主張することではない。
多くの場合、
立場を引き受ける行為だ。
引き受ける覚悟がないまま語れば、
言葉は武器になる。
引き受ける覚悟があるから語らなければ、
沈黙は防具になる。
正しさを語らない人間が守っているのは、
評価でも、
好感度でも、
自分の安全だけでもない。
多くの場合、
守っているのは
「自分が、どの場所で、何を引き受ける人間か」
という判断だ。
すべての場で、
同じ振る舞いをする必要はない。
語る場所と、
語らない場所は違う。
その切り分けをしている人間ほど、
言葉を軽く扱わない。
正しさを語らない、という選択は、
無関心ではない。
逃避でもない。
それは、
行動の場を、
まだここに置いていない
という意思表示に近い。
どこで語り、
どこで黙り、
どこで引き受けるのか。
その判断があるかどうかで、
沈黙の意味は変わる。
ここでは、
それ以上は書かない。
ただ、
正しさを語らない人間が
何を守っているのかは、
その人が立つ「場所」を見れば分かる。