沈黙は中立ではない。
そう言われる場面を、最近よく見かける。

声を上げないことは加担だ、
何も言わないのは逃げだ、
沈黙は悪だ。

 

 

そうした言葉は、分かりやすく、
正しそうに聞こえる。

ただ、その分かりやすさの中に、
いくつか見落とされている前提がある。

 

 

まず、沈黙は一つの意味を持つ行為ではない。
恐れから来る沈黙もあれば、
判断を保留している沈黙もある。
発言の影響を測っている沈黙や、
語る責任を引き受けないための沈黙もある。

 

 

同じ「何も言わない」という行動でも、
その内側はまったく違う。

にもかかわらず、
沈黙を一律に「中立」や「悪」と見なしてしまうと、
人は考えることよりも、
立場を表明することを優先するようになる。

 

 

その結果、
意見は増えるが、思考は減る。

声が大きいものが残り、
慎重なものは消えていく。

 

 

沈黙を肯定したいわけではない。
声を上げる行為を否定したいわけでもない。

ここで扱っているのは、
どちらが正しいか、という話ではなく、
沈黙という行為を、あまりにも単純に扱いすぎていないか
という違和感だ。

 

 

沈黙は中立ではない、
という言葉が正しい場面もある。

同時に、
沈黙は中立ではない、
という言葉が雑に使われている場面もある。

 

 

問題は、
沈黙を選んだ人間の内側を見ずに、
結果だけで評価してしまうことだ。

考え続けている人間ほど、
簡単に言葉を出さないことがある。

 

 

その沈黙は、
逃げではなく、停止でもなく、
単なる空白でもない。

どう扱うべきかは、
まだ言葉にしきれない。

 

 

だからここでは、
結論は置かない。

 

 

この話は、
「何も言わない人」をどう評価するか、
では終わらない。

 

 

沈黙をどう捉えるかは、
その人が
思考をどこで止めているかを映す。

それだけを、
ここに記録しておく。