(1) 社会、覚えられないので。
私が担当していた、ある進学塾の個別指導に、
ある年の2月はじめ、入塾してきた中2生のCさんの話です。
この塾は、普通クラスと個別指導の2つのコースがあり、
個別指導は、おもに「できない子」「下の子」のコースでした。
「個別にいったら高校にいけないぞ」と普通クラスの生徒に塾長が言うくらい、
「低い塾生」のためのコースでした。
‘ Cさん、何の教科を勉強しますか ’
「 社会、覚えられないので、社会をお願いします 」
‘ 社会、覚えなくてもいいよ ’
‘ それでは、週2回、今から学年末テストに向けて社会をしましょう ’
‘ まず、ノートを1冊用意して、問題集を解きその解答をノートに書きましょう ’
‘ ノートに解答するとき、解答番号をつけるのを忘れないでください ’
‘ 問題集の解答欄には、決して答えを書き込まないでください ’
‘ 問題が解けないところは空白にして、できるところだけ解答してください ’
‘ では見開き2ページ分の問題を解いてください ’
「 先生、できました 」
‘ 答え合わせをしましょう ’
‘ 間違った・解けなかったところを問題集の問題番号のよこにチェックしてください ’
‘ 正答率を上げるためのチェックですから、
{ 正の字 }を使ってチェックしてゆきましょう ’
「 先生、チェックしました 」
‘ それでは、間違った・解けなかったところを、教科書や学校の授業ノートなどを
使って調べます ’
‘ 今日は、問題集の{要点のまとめ}を使って調べてください ’
‘ 調べたところも鉛筆でうすくチェックしてください ’
「 先生、調べてチェックしました 」
‘ 今日、塾でしたところを同じように、次来る日までに、必ず2回家でしてください ’
‘ そうすれば、覚えなくても、覚えてしまうから ’
「 それだけでいいんですか 」
‘ はい、それだけでいいです ’
数日後、塾に来たCさんの問題集の解答欄には、正の字の一本から三本までの
チェックがありました。
‘ さあ、今日は、チェックしたところの問題だけ解いてください ’
「 先生、できました 」
‘ 答え合わせをしてください ’
「 先生、全問正解しました 」
‘ 覚えなくても、覚えてしまっているでしょ ’
「 はい 」
‘ では問題集のつぎのページに進みましょう ’
「 先生、同じようにしていけばいいんですね 」
‘ はい、同じようにしていってください ’
こうして教科書の読解、授業ノートの活用、そして問題演習、さらにこれら
のリンクにより、中学社会分野の{文字による言語}を使用する機会を増やし、
中2生のCさんは、学年末テスト(社会)95点以上とって、
5段階評価をそれまでの「3」から「5」に上げました。
中学生の方は、
今から5月の中間テストに向けて、Cさんのように取り組むことができます。
中間テスト・期末テストで高得点をとって評価をあげましょう。
(2) 学力の創造と向上の障害になること : 指導者と生徒が手を抜く!
Cさんは、普段から教科書や授業ノートを使って、定期テストに取り組んできた
と推測できます。手を抜いてこなかったのです。
勉強する上で、ある程度しなければならない手続きを省かなかった。
その取り組みに問題演習をプラスし、正誤のチェックをすることにより
問題と教科書とノートを関係付けることによって、{文字による言語}の使用機会
をさらに増やし、十分な準備をしてテストに臨み、高得点をとりました。
手を抜いてこなかったからこそ、私の指示を理解し素直に受け入れ、
対策に取り組むことにより、高得点をとることができたのでしょう。
Cさんは、入塾以前も以後も手を抜かなかった。
Cさんから学んだこと
手を抜かずに取り組んでいれば、何らかのキッカケにより、
それまでの行為が実を結ぶことがある。それが勉強という行為だと。
一方Aさん(他者から学ぶ第1・2号)は、Cさんと同じ「覚えられない」という言葉を
使いますが、教科書を読めないため、ノートも読めずテストに向け取り組むことさえ
できなかった。ただ、教科書を開くだけ。
教科書の見開き2ページを30分かけて見ても、
その内容について何も答えられない。
Aさんの行為は、中身がからっぽで、自分は勉強をしているという
アリバイ作りにしかなりません。勉強しているフリをしているだけです。
{文字による言語}をまったく使用せずに教科書を開いているだけなのです。
勉強という行為にも中身があり、その中身にはさまざまな細部があります。
その細部をどのように扱うかによって、勉強が{充実したもの}から
{フリをするもの}までの差異のあるものになります。
「文字を見るだけで覚えることができる」という誤った信念をもち、
それを中学3年生になるまで誰にも注意・訂正されなかっため、
勉強において手を抜かざるをえない状態に陥りました。
Aさんは、この手抜きを当然自覚していません。
誤った信念をもち手を抜いてきたため、私の指示をなかなか理解できず、
素直に受け入れるどころか、むしろ反撥さえ覚えるのでした。
誤った信念を注意・訂正しない以前の指導者たちの手抜きが、
思いつきばかりであまり考えないAさんを育て、
Aさんの学力の創造と向上の機会を奪ってきました。
この手抜き放置してきた指導者たちの存在により、
自分のこの信念と行為は、正しいのだとAさんは思うようになります。
(自分のこの信念と行為を今まで誰も注意しなかった)
そして、その正しいと思う行為をしても、覚えることができないのは、
自分がアホで頭がわるいからとAさんは思うようになります。
(この信念と行為のために覚えることできないのだと誰も教えてくれなかった)
注意しない・訂正しないという指導者たちの手抜きが、Aさんのような人を育て、
その手抜きを正当化します。そして、{文字による言語}の使用機会を奪います。
{文字による言語}が適切に使えなければ、
勉強(仕事)において手を抜かざるを得ない状態が生まれます。
なぜ、以前の指導者たちは、Aさんのこの誤った信念と行為を注意・訂正
しなかったのでしょうか。
少しこのことについて考えてみます。
1 「これはテストにでるから覚えろ!」と指導できても、
どのように取り組めば覚えられるのかということを指導できない指導者だったから。
例えば、塾講師の中にも、「これを覚えなさい」と言うだけで、
「このように取り組めば覚えている状態になるよ」と指導できない者もいました。
その塾講師は、ある中3の生徒が「覚えられない」と泣いていることを、
「あの生徒、『覚えられない』と言って泣くんや」と笑いながら私におしえてくれ
ました。Aさんのように覚える能力のない生徒は放置されます。
2 相対評価や相対的評価をしなければならない指導者にとっては、
生徒を比較して差をつけなければならないから、Aさんのような生徒は、
低い評価を割り振るのに、とても好都合な存在だった。
当然できないままがいいわけです。
たとえば、学校の先生方の中には、相対的評価することが念頭にあるため、
もともと評価の低い生徒が、評価を向上させることにあまり関心がない先生、
評価の低い生徒が評価を向上させる可能性を、認めない・認めたくない先生
がいます。
また、はじめは相対評価・相対的評価の制度に従って、
生徒を評価していたはずが、いつの間にか自分の評価が、
生徒ひとりひとりの能力を正当に評価していると勘違いする先生もいます。
いま評価が低い生徒を、なんとかして評価が上がるようにと指導することは、
ほとんどありません。評価が固定化してしまうのです。
これらは、相対評価・相対的評価のもつデメリットです。
高校入試で内申点を合否判定に使う限り、
現在の絶対評価も、相対的評価に書き換えられるでしょう。
私の知る限り、相対評価・相対的評価がもつ問題点については、
学校の先生方はあまり関心がないようです。
昔々、ある学校の先生に、
‘ 相対評価は、生徒が能力をつけて評価を向上させるという点を無視していて、
問題はありませんか? ’と尋ねますと、
「 わしに、飯食うなて言うんか!生活すんなて言うんか!塾屋のおっさん! 」と
怒られました。
「 客観的に適正に評価している。いいかげんに評価していない! 」
「 評価は、子供でなくてその親・保護者を評価しているんや 」
‘ 親・保護者の職業は評価に影響するんですか? ’
「 あたりまえや 」
また、別の先生に同じことを尋ねると、
「 能力がない生徒に低い評価をつけているから問題はない。 」
‘ 今は能力がない生徒も、勉強の取り組み方によっては、
能力を身につけることはあり得るでしょう。 ’
‘ ひとりふたりと能力を身につける生徒が増えてきたら、
必然的に、能力を身につけた生徒を低く評価することになりませんか。 ’
「 いま能力がない生徒は、生まれつき能力がなく、能力はつかない。 」
‘ そのことを前提にするのなら、教育は無駄になりませんか ’
「 無駄でも仕事やからやってるんや! 」
Aさんから学んだこと、
指導者の指導という行為も中身があり、その中身にはさまざまな細部があります。
その細部をどのように扱うかで、指導は{充実したもの}から{フリをしたもの}まで
差異のあるものになるということ。
そもそも生徒の指導者は何のために、存在しているのか?
生徒が学力を創造するために、存在しているはずです。
ところが、この存在理由を全く自覚しない指導者が存在しているということ。
指導者の手抜きによって、子供の{活字離れ}が生れているということ。
{文字による言語}を子供に獲得させるのは、
{周囲の他者の一人である指導者}の義務です。
子供には{文字による言語}を獲得する権利があるのですから。