先日、性的マイノリティーの友人がいれば差別など誰もしないだろうと言う意見を読んだ。
残念ながら、私がアメリカやフランスで見聞きしたところでは、事はそんなに単純ではない。
親しいアメリカ人の友人で、人種差別などは絶対にしない人が、こんなことを言うのを聞いたことがある。
性的マイノリティーの人達を「治してやる」と。
言った本人には性的マイノリティーの友人がいる。
友人がいるときにはそういう事は言わないのか。
私にはよくわからない。
フランスでも、性的マイノリティーの親しい友人を持ちながら、同じようなことを言う人がいた。
彼に言わせてみると、同性愛者はそれがファッショナブルだからやっているのだと言う。
「でもアランはあなたの大切な友達じゃなかったの?
あなたはアランのことを素晴らしい人だって言ってたじゃない。」
彼は黙った。
自分の友人は例外だと思っているのか。
どうもはっきりしなかった。
彼もやはり、他の事ではオープンなマインドを持っていた。
欧米には同性同士の結婚が認められている国も多く、日本より理解が進んでいるように見える。
が、実は、性的マイノリティーに対する偏見は他の偏見より根強いようだ。
これは中世キリスト教の負の遺産の1つではないかと思う。
つまり、1部の人々が聖書は同性愛を禁じていると解釈したことが尾を引いているように思える。
他の差別、例えば障害者に対する偏見は、イエスによって否定されたと新約聖書にはっきり書いてある。
これはキリスト教のポジティブな遺産の1つで、今でも障害者に対する偏見は、日本より欧米の方が少ない。
障害者のための施設も街の真ん中にあったりする。
性的マイノリティーに様々な権利を与える法律はできても、人々の中にある禁忌の感情は根強い。
暴力事件にまで発展することもある。
人はなぜ差別をするのか。
優越感を感じるためだろうか。
知識が足りないためだろうか。
十把一からげに人を見るためだろうか。
異性愛者といっても、皆一人一人違う。
友人になれる人もいれば、友人にはなれない人もいる。
性的マイノリティといっても、同性愛者といっても、皆、同じではない。
一人一人のその人なのだ。
<広告>
