『人生は森の中の一日』  長田弘

何もないところに、
木を一本、わたしは植えた。
それが世界のはじまりだった。

次の日、きみがやってきて、
そばに、もう一本の木を植えた。
木がニ本。木は林になった。

三日目、わたしたちは、
さらに、もう一本の木を植えた。
木が三本。林は森になった。

森の木が大きくなると、
大きくなったのは、
沈黙だった。

沈黙は、
森を充たす
空気のことばだ。

森のなかでは、
すべてがことばだ。
ことばでないものはなかった。

冷気も、湿気も、
きのこも、泥も、落ち葉も、
蟻も、ぜんぶ、森のことばだ。

ゴジュウカラも、アトリも、
ツッツツー、トゥイー、
チュッチュビ、チリチリチー

羽の音、鳥の影も。
森の木は石ゴケをあつめ、
降りしきる雨をあつめ、

夜の濃い闇をあつめて、
森全体を、蜜のような
きれいな沈黙でいっぱいにする。

東の空が
わずかに明けると、
大気が静かに透きとおってくる。
朝の光が遠くまでひろがってゆく。

木々の影がしっかりとしてくる。
草のかげの虫。花のにおい。
蜂のブンブン。石の上のトカゲ。

森には、何一つ、
余分なものがない。
何一つ、むだなものがない。

人生も、おなじだ。
何一つ、余分なものがない。
むだなものがない。

やがて、とある日、
黙って森を出てゆくもののように、
わたしたちは逝くだろう。

わたしたちが死んで、わたしたちの森の木が、
天をつくほど、大きくなったら、

大きくなった木の下で会おう。
わたしは新鮮な苺をもってゆく。
きみは悲しみをもたずにきてくれ。

そのとき、ふりかえって
人生は森のなかの一日のようだったと
言えたら、わたしはうれしい。

**********************

人生の最後を迎えつつある、
最愛の伴侶、瑞枝さんに捧げるため、
長田弘さんのたっての希望で
クリムトの絵と組み合わせた詩画集『詩ふたつ』が
生まれました。

その名の通り、
『花を持って、会いにゆく』と
『人生は森の中の一日』
の二篇の詩だけが収められた美しい詩画集です。

と言っても、
正直に言えば
まだ手に入れていません。
ちゃんとこの手にとって、朗読したいという想いが
あふれそうになるときがあります。

今が実はそうなのですが、、
アマゾンですぐに購入しようと決めれば
一週間後には願いが叶うのに。
なんで、さっさと注文しないのかな。

でも、まだその時期じゃないよ、と、
どこからかささやき声が聴こえるのです。
わたしって、めんどう。。

『バスラの図書館員』に出会ったときとは、
まったく正反対の自分自身のリアクションに
自分でもワケが分かりませんが、
『詩ふたつ』をこの手に持てる日を
ゆるりと待つことにしましょう。。

最後に、時論公論で落合恵子さんが引用されていた
この詩画集の後書きに感銘を受けたので、
ここにも転載させていただきます。

『・・・この世の誰の一日も、1人のものである。
(中略)1人のわたしの1日の時間は、いまここに在るわたし1人の時間であると同時に、この世を去った人が
いまここに遺してゆくのは、その人が生きられなかった時間であり、その死者が生きられなかった時間を、
ここに在るじぶんがこうして生きているのだ、
という不思議にありありとした感覚。(中略)
心に近く親しい人の死が後に残るものの胸のうちに
遺すのは、いつの時でも生の球根です。
喪によって、人が発見するのは絆だからです。・・・』

長田弘さんも、昨年の五月に永眠されました。
心からご冥福をお祈りします。
 
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