毎日新聞デジタル

取材を受けました

 

被災地で水無し電気無し食べ物無し

 

こんな事もありました

 

拾って来て食べました

 

山水の水道があれば

 

地震の後だったので

煮沸して使いました

 

流れて落ちてる米を

 

洗って食べました

 

期限切れの食べ物でも

 

何処の物とも思えない

 

カップ麺も

 

ご馳走になります

 

届けられるかどうかが

 

ネックになりますが

 

ヘリが飛んできても

 

取材用のヘリでただ飛んでくるだけでした

 

SOSと書いただけでは

 

伝わらず

 

水、食、

 

必要なものを地面に大きくわかるように

 

避難所生活は1か月をかなりオーバーして

 

暮らす方もいっぱいでした

 

仮設住宅は何年単位の方も

 

いっぱいでした

 

関連死

 

たくさんありました

 

ちょっときつい記事になったかもしれませんが

 

ある一部です

 

私たちもまだまだ

 

身体ともに復興したとは言えません

 

ただただ前を向いて

 

進むだけでした

 

時にはがむしゃらに

 

時には落ち込み

 

でもそれが人間ではないでしょうか

 

普通に暮らしても困難はつきもので

 

そして今でも歩こうとしております

 

流れて来た鮭もカッターで切って食べました

 

ジャガイモも拾って来て食べました

 

泥だらけのオロナミンC

 

ちょっとふいて飲みました

 

玄米洗ってそのまま炊いて食べました

 

煮れば、炊けば食べれると思って

 

何でも食べました

 

つまり、生きるか死ぬかでした

 

でも、

 

今だったら食べませんが、

 

それが震災でした

 

雄勝町は陸の孤島でした

 

冬でなければ山菜とってくんのになあ~~

 

と!1号の父が言ってました

 

嘘だと思うかもしれません

 

もっともっとひどいことを

 

考えました

 

もし食べ物がほんとになくなったら

 

子供たちに何を食べさせますか???

 

究極の選択まで考えました

 

あの時の思いがあまりにもわかるので

 

気持ちが収まらない感じです

 

ここまで読んでくださいまして

 

ありがとうございます

 

とりとめがなかったですが

 

すみません<(_ _)>

 

       THETIPS、

これで3か月後です

 

まだまだ

 

どうにもならないころでした

 

着る服は支援物資でした

 

ありがたいです

 

バスが屋上に上がっておりますが

 

波はもっともっと上まで来てました

 

引き波でここに納まった感じです

 

書いたらきりがありませんので

 

終わらせていただきます、