避難した雄勝町の火葬場から
河北町にある中学校の体育館に避難した私達は
義父母と子供たち二人を新潟の義妹夫婦にお願いし...
私達夫婦二人で 石巻の叔父の家にお世話になりました
 
その頃は まだ仮設住宅が建てられるという
目処もついていませんでしたし 
母と祖母の遺体とも対面していませんでしたから
どのように生活を立て直さなければならないのか
今後の生活を 暗闇から手探りで手繰り寄せるために
夫婦で 石巻に残ることにしました 
 
お世話になっていた叔父の家では
本当によくしていただきました
 
河北中学校の体育館に探しに来てくれたのも 
叔父の息子であり 私の従姉弟のS君です
私たち家族の姿を見つけたとたんに
「 麻紀ねぇ うぢさこい! みんなでうぢさこい! 」
目に涙をいっぱいためて 
今にも手を引っ張っる勢いでそう言ってくれました
どれだけ有難かったことか 嬉しかったことか
そして 申し訳なかったことか
 
迎えに来てくれた新潟の義妹夫婦に家族をお願いした後
夫婦で叔父の家を訪ねました
叔父が笑顔で迎えてくれました
蝋燭の明かりの中で 温かいご飯を食べさせてもらいました
そのご飯は 本当は叔父の夕ご飯でした
叔父に申し訳なくて食べれないと言うと
自分はお酒を飲むからいいんだ とニコニコしています
暖かい白いご飯 温かい豚汁 昆布の佃煮
叔父の夕ご飯を 夫と二人で半分にしていただきました
疲れている私達を気遣い
S君が布団を敷いて湯たんぽまで入れてくれました
着のみ着のままで逃げて 焚火の煙でいぶされて
その汚いすすけた格好のままなのに
綺麗で暖かい布団に寝せてもらいました
 
その晩 夫と二人で泣きました
震災後初めて泣きました
私たちは 夜になると毎晩泣いて 
何が何でも生きなければいけないことを覚悟しました
 
義援金や支援物資というものが目の前の現実となった時
本当に何もないのだということを思い知らされ 
人様からいただいたもので生きる覚悟をしました
 
被災したのは避けようのないことなのに
申し訳なくて 申し訳なくて とても惨めだった時に 

被災地で義援金や亡くなった家族の保険金などの
大きなお金が動く現状に対して
「 震災太り 」という言葉が聞こえてきました
その言葉にショックを受けた私を見て
叔父はこう言いました
「 今まで税金払って生活してたんだろう?
  お前たちにはちゃんと権利があるんだよ 」
そのように 私の心も救ってくれました
 
叔父も 本当はかなり無理をして
私たち夫婦を受け入れてくれたはずです
後日 私の父や弟たちまで引き受けてくれたのですから
並大抵の気持ちではできないことなのです 
自分たちも被災している中で 
更に厳しい状況の親戚を一つ屋根の下に避難させ
長い期間 一緒に生活をするのです
それがどんなに難しいことか 
今の私には 痛いほどよく分かります
 
被災者という言葉を 口に出すのは簡単です
しかし その被災者という言葉からは 
決して一人一人の被災状況は見えてきません
語り部では話せても
対面してお話ししない限り誤解されることもあるため 
ネット上に公表できないことの方が多いのです
 
命があって避難出来たら 
次は被災者としての生活が始まります
被災者として生活することが どのようなことなのか
当時の様々な体験を知り 我が家のこととして 
大切なご家族と話し合ってください
その話し合いも 防災減災に加えるべき備えだと思います 
 

 
被災した人間の気持ちの一端です
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語り部佐藤麻紀