ことのは

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私たちが批判的に物事を見ることができない理由は、

洗脳されることに慣れていることに起因します。

 

ここで、「いやいや、私はこれまで一度も洗脳されたことがない」

と思ったら、要注意です。

事実はその逆で私たちは誰でも洗脳経験者ですし、

洗脳されることで成長してきたと言っても過言ではないくらいなのです。

 

実は、私たちにとって最も身近な洗脳者は、親であり、

洗脳機関は学校です。

教育こそが私たちが最初に経験する洗脳になります。

それは私たちが洗脳されることによって人格を形成してきたからです。

 

勉強しなさい

社会のルールを守りなさい

働きなさい

人には優しくしなさい

 

もちろん、これは悪いことではありません。

しかし、一人の人間をルールが遵守できるように仕立てあげることは基本的には洗脳と変わりません。

では、洗脳と教育を分ける境目は何でしょうか。

 

それは、本人の利益になっているか?

本人以外の第三者の利益になっているか?です。

情報操作の結果が本人にとって利益となるのであれば、

洗脳とは言わず、教育となるわけです。

 

また、「常識がない」という言葉は、とても曖昧模糊。

発言者の社会的地位、グループ内での力関係によって、

”常識”はいくらでも変わってしまう。

 

洗脳には、常に洗脳者側、情報発信者側のメッセージが含まれており、それが正しいことだとされます。

 

痩身CMならば、「痩せた身体が正しい」、

洗剤のCMであれば「家の中は不潔で掃除が必要」。

こういったメッセージは一見とても受け入れやすいものですが、

痩せた身体が絶対に正しいとは限らないし、

毎日拭き掃除していれば不潔ということはないでしょう。

結局こういったメッセージには、過剰な情報が含まれています。

過剰なメッセージは、家の中、会社の中、学校の中でも発信され、

常に存在しています。

 

洗脳は決して特別なこと、特殊な状況の中で行われるものではなく、

日常茶飯事であり、私たちはずっと洗脳の真っ只中にいるのです。

 

私たちが、洗脳から逃げることはほぼ不可能なことを理解した上で、

改めて、いま自分が住んでいる世界の「拝金主義」

 

MBAで教えてるのは、経営管理の技術であり、要は人事や総務の範疇で、人の転がし方「リストラ」と、金の転がし方「回転率を上げた上で、税金を払わない」ことになります。

 

パナマ文書やオフショアリークスによってわかったことは、

大企業のほとんどが脱税をしていたことです。

電通・JAL・NTTドコモ・ライブドア・オリックス・大和証券・東京海上・三菱商事・丸紅・大日本印刷・商船三井・東洋エンジニアリング・東京電力・住友金属工業・ドワンゴ・楽天ストラテジックパートナーズ・ソフトバンク・日興証券・日商岩井・伊藤忠商事・豊田通商・日本製紙・バンダイ・セコム・JAFCO・JXといったところです。

 

世界的にパナマ文書公開の衝撃が走っているときに、

日本ではほとんど無視しました。

その後、インターネットによる日本の大手メディアへの批判、海外の報道ぶりを見て、ようやくニュースにしましたが、財界の言いなりでした。

 

ビジネスのため、租税逃れではない、適正な税務対応をしている…

メディアは、そのまま掲載し批判もせず「報道しました」とすまし顔。

洗脳の基本中の基本は情報遮断であり、国民をだまし、黙らせる。

 

有価証券報告書を見れば、日本の大企業の多くはとっくに外資によって買われてしまっていることが公表されています。

 

 

他人に洗脳される理由は、自分を見失ってしまうからです。

しかし、自分のゴールさえあれば、

洗脳情報の中から必要な情報を選り分け活用することもできる。

実はこれこそが現実的な脱洗脳法なのです。

 

脱洗脳社会は無理ですし、洗脳を止めることもできませんが、

「だから何?」と言って自分の好きなように生きることは可能なのです。

すべての洗脳を一瞬にしてキャンセルすることができる反洗脳法。

それが、ゴールを持つこと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

脳が発達していない動物は、

見たものをそのまま記憶する能力が高い。

だからこそ、なかなか応用がききません。

 

一方、人間の脳は表面に見えている情報だけではなく、

その奥にあるさまざまな情報をつなぎ合わせながら、

状況をとらえようとします。

そのために、学習に時間がかかるのです。

 

⑴算数の公式を例にとり、効果的な勉強方法を比較します。

知識や情報を脳に取りこむことを「入力」

反対に、外に出すことを「出力」

使う機会が多ければ多いほど、覚えられるので、次の順位。

 

①公式が出てくる問題を何度も解く    「入力」「出力」使う回数最多

②学んだ公式を何度も書き出す      「入力」「出力」

③学んだ公式を何度も声に出して読む  「入力」「出力」

④公式を何度も目で追う             「入力」

 

⑵集中力

グループA 同じ場所で、休憩なしで60分間学習。

グループB 15分を3回に分け、合間に7分半の休憩を2回はさむ。

結果、当日はAが点数が高かったのですが、

翌日、1週間後では、逆転してBの点数が上回りました。

集中力に関係している脳波は、ガンマ波だと考えられていますが、

Aでは、40分を境に急激に下がり、

Bは、休憩によってパワーが復活し、

学習の間一定の集中力を維持しました。

 

以上をふまえ、家の中に勉強するスペースを複数用意して、

ノマドのように、いろんな場所に移動して、そのついでにストレッチなど

短い息ぬきの時間をとるのが、オススメです。

 

⑶記憶のコツ

①感情たっぷりに覚える

②声に出して耳で覚える

③歩きながら覚える

④知識を応用して記憶力を上げる

⑤おもしろがる

 

脳は勉強したくらいで疲れるようなヤワなものじゃありません。

ただ、身体はどうしたってくたびれてくる。

ずっと同じ姿勢で机に向かっていれば、お尻や腰の筋肉はかたまり

鉛筆を持つ手もだるくなってきます。

 

実は、ポイントはここにあります。

身体の動きが止まると、脳は退屈してきます。

脳は頭蓋骨の中に閉じこめられているので、

外からの刺激がないと元気に活動できないからです。

 

 

 

 

 

 

ダニング=クルーガー効果

 

①能力が低い人は、能力が低いがゆえに、

自分はいかに能力が低いかを理解できない。

 

②能力の低い人は、

他人のスキルも正しく評価できない。

 

③だから、能力の低い人は

自分を評価しすぎる傾向がある。

 

できない人ほど「自分はできる」と

自信過剰になる傾向がある。

 

 

 

「美味しいものを食べることが大好きです」

実は、この言い方は不適切で、正しくは、

好きな食べ物を「美味しい」という言葉で表現しているにすぎない。

 

食の快感は、原因と結果が逆転する矛盾を気づかせないほど圧倒的だということでもあります。栄養を満足に得ることは、生殖と同様、種の保存に必須なので、食から得られる快感が圧倒的だったとしても一向に不思議ではない。

 

味覚は主に、甘味・苦味・酸味・塩味・旨味の五つから成るが、生得的に快感をもたらすのは、甘味と旨味の二つだけで、これらの快感は絶対的。

 

甘味の成分は糖分で、旨味の多くはグルタミン酸やイノシン酸、アミノ酸や核酸で、肉に多く含まれています。旨味成分は細胞に閉じ込められていて、細胞が壊れると中から滲み出てきます。手っ取り早い方法は加熱で、熱せられると細胞が破砕されて、旨味成分が滲み出る。加熱以外にも、熟成・干物・発酵させる加工が該当します。

 

食文化は化学実験の権化です。濃縮された旨味成分は、舌の快感ツボを集中的に刺激します。

美食とは、さしづめ「舌の性感マッサージ」といって語弊はない。美味しいものを食べることは、舌の快感を自ら刺激して悦には入る、究極の自慰行為なのです。

 

快感と不快感は正反対の感覚のように思いますが、実はメビウスの輪。たとえば、顔写真の表情から、性的エクスタシーに浸っているのか、痛みに苦悶しているのか、あるいは音楽に陶酔しているのか、試合に負けて悔しがっているのかは、心理状態は、まったく区別ができません。

 

赤ちゃんは、オシッコをしたいときや、眠たいときに泣きますが、これは「オムツを替えてほしい」「布団で寝かせてほしい」という要求ではなく、単に不快だから泣くのです。これらは泣き声をあげるタイミングを測定するとわかるのですが、泣くのはオシッコをする直前か、しはじめで、ぬれたオムツが不快ではなく、尿意や排尿が不快なのです。眠いときも同じで、就寝前にグズるのは、睡魔が不快なのです。

 

大人にはこの不快感は理解しがたいでしょう。

なぜなら私たちは経験的に、生得的には不快であるはずの生理感覚を、後天的な学習によって「解放の前兆」という信号に読み替えて、官能的快感として味わっているわけです。

 

私たちの身体は、アクセルを全開にすることはありません。アクセルとブレーキはセットで、たとえば、腕を伸ばすときには、伸筋を収縮させるだけでなく、屈筋も収縮させます。ただし伸筋のほうが強く収縮するので、結果として腕が伸びる。火事場の馬鹿力や重量挙げは、アクセル全開に近づく特殊なケースです。

 

痛みについても同じで「痛い」と感じるときには、同時に「痛くない」という脳内信号も走ります。痛みを消す神経物質はエンドルフィンやエンケファリンとして知られる脳内麻薬です。この鎮痛の信号系は、同時に最高の快感をもたらす神経系でもあります。ときに「痛さが快感」という趣味の方がいますが、これはアクセルとブレーキのバランスがブレーキ側に偏っていて、痛みを感じるときに脳内麻薬が多く出るために、痛覚に随伴する快感が前面に出てくるのです。

 

ちなみに、辛味を感じる神経は、舌に存在する「痛み」の神経なので、味覚には分類されません。辛さは本質的には不快であり、痛覚なのです。ところがヒトは、料理に香辛料を好んで使います。一部の人は、辛さに異常なほどの愛着を示します。これも痛みを快感が克服している状態、いわゆるバランス崩壊症です。

 

これは特殊な話ではなく、本来は不快であるはずのオシッコやまどろみを快感として経験する同じ原理で、いわば学習性マゾヒストです。

長距離ランニングに快感を覚えるランナーズハイ、仕事をしないと気がすまないワーカホリック、苦味飲料であるコーヒーやビールの愛飲…

 

ヒトという生物は、

メビウスの輪の快と不快を往来する性的倒錯なのです。

 

 

 

 

 

 

 

・日大アメフト部監督による暴行指示と事件発覚後の雲隠れ

・財務省事務次官などの高位役職者によるセクハラ

・神戸市・横浜市の教育委員会等によるいじめ調査結果の隠蔽

・財務省による森友・加計問題に関する情報の改竄・隠蔽

・大手メーカーによる度重なる偽装・粉飾・改竄

・日本ボクシング連盟会長による助成金の不正流用、暴力団交際

 

現在、いろんなところで「劣化したオッサン」に関する議論が行われていますが、その大勢はそれらの「オッサン」個人に劣化の要因を帰するものです。

心理学者メグ・ジェイは、二十代は「人生を決定付ける10年間だ」と指摘しています。この貴重な二十代を、バブル景気に浮かれる世の中で「会社の言うとおりにやっていれば金持ちになって別荘くらいは持てるさ」という気分のなかで過ごしてしまったことは不幸だったとしか言いようがありません。

 

なぜこれほど劣化したのか?

「組織のリーダーは構造的・致命的に経時劣化する」からです。

 

すべての企業は、天才か才人によって起業され、成長した結果として現在があるが、軌道に乗って成長するに連れて人的資源の増強が必要になると、凡人が採用活動を担うようになります。

やがて創業者が引退すれば、よほど意識的になって天才や才人を人選に担ぎ出さなければ、その組織の人材クオリティの平均は限りなく凡人の水準に近づいていきます。

 

スタンフォード大学ビジネススクールで組織行動論の教鞭をとっているジェフリー・フェファーは、組織内で出世して権力を得た人は、優秀だから出世したのではなく、野心的かつ政治的に動いたから出世したのだ、と指摘しています。

実績と昇進の関係においてはこれまでに数多くの組織的な調査が行われているが、仕事ぶりや能力は昇進や人事評価にはあまり関係がないことが分かっていると主張しています。

 

つまり「出世した人を敬うべきだ」という命題を言い換えれば、

「強欲で権力志向が強く、プライドを捨てて上司にオベッカを使う人を尊ぶべきだ」ということになります。

 

「劣化したオッサン」をトップに据えてしまえば、周囲に残るのは忖度によってなんとか権力のおこぼれに預かろうとする「劣化したオッサン」ばかりということになり、一流の人材が組織のトップに返り咲く可能性は限りなくゼロに近くなります。

そうなるとカギは、明治維新や太平洋戦争終戦後のように、四十代以下の世代の運動ということになります。

 

劣化したオッサンのもとで納得できない理不尽な仕事を押し付けられている立場にある人であれば、まずオピニオン(おかしいと思うことはおかしいと意見する)、そしてエグジット(権力者の影響下から脱出)することが革命の武器となります。

 

劣化したオッサンからすれば、「オレのやっていること、言っていることに誰も反論しない、オレの支配下から誰も退出しない」ということになれば、自分がリーダーとしてそれなりの人望を持っているのだ、と勘違いしてもおかしくはありません。

逆に言えば、オピニオンもエグジットもしないということは、権力者の言動を支持しているということでもあります。

 

一連の不祥事を起こした企業に身を置きながら、オピニオンもエグジットもしないということは、これらの不祥事に自分もまた加担し、それらを主導した権力者を支持している、ということにほかなりません。

 

一橋大学学長を務めた歴史家の阿部謹也は「わかるということは、それによって自分が変わることだ」と指摘していますが、これは脳神経科学の側面からも立証されています。

ジェームズ・E・ズルは、「学習とは変化することであるという主張は、単なるメタファーではなく、物理的事実です。つまり、学習によって人の脳は変化するのです」と指摘しています。

 

同じ仕事を30年続けているという人は「30年の経験がある」と主張したがるかもしれませんが、脳神経科学の文脈で「経験」という言葉を厳密に用いれば、実際には「1年の経験から学び、あとは同じことを29年繰り返した」と言うべきです。

なぜなら「経験」とは常に、新しい気づきへの契機をもたらすものだからです。

 

私たちは、おそらくはじめて、年をとっているというだけでは偉そうな振る舞いが許容されない時代を生きることになります。

そのような時代において、時間という武器を自分の資本にしていくためには、良質なインプットを継続的に続けていくことが必要でしょう。

 

そのようにして個人が知識を蓄積し、それに基づいて思考し、思考したことをオピニオンとして表出し、他者のオピニオンもまた傾聴することで、はじめて権力を牽制することができるのだということを、決して忘れてはならないと思います。

 

私たちの時間を意味あるものに変えていく、権力と戦う武器に変えていくためには、学び続けなければならない。

わたしたちはそういう時代を生きているのです。

 

 

 

 

 

 

若者の気質の移り変わりの早さの異変に最初に気づいたのは

2008年頃。iphoneが発売され、リーマンショックが起きた年。

大学生向けのセミナーでの質問が激減し、

「ゆとり社員」「草食男子」なんて言葉が一般化した頃。

明らかとなったのは、決定的なジェネレーションギャップ。

 

2018年に21歳になる若者の生まれた年は、1997年。

バブル崩壊による不況があらゆる産業に影を落とし、

山一証券と北海道拓殖銀行が破綻し、金融だけでなく電機産業にも

リストラの嵐が吹き荒れた頃だ。

1997年生まれの若者は生まれてから不況しか知らないし、

上昇する経済を見たことがない。

明日は今日より良い日がやってくると信じられない世代なのだ。

「企業も人も無理して頑張る必要はない」というのが彼らの価値観。

 

あと数年でAIによる自動運転が現実となる。

ドライバーがAIに置き換わり、

倉庫内作業もAIとロボットがこなす世界になる。

近い将来にAIやロボットに代替されてリストラすることになる人たちを集めるために多大なコストと時間を使わざるを得ない

「採用のジレンマ」

 

アメリカではAIカメラを搭載した警備ドローンが不審者を追跡し、

飛べない警備員は不要だ。

コールセンターではAI弁護士が駐車違反の異議申し立てで活躍し、

16万件の違反切符の撤回に成功している。

2000年に600人いたゴールドマン・サックスの高報酬な為替ディーラーは現在3名。

メガバンクでは今後、契約書の作成や融資の審査業務が

AIに代替され数万人規模で行員が不要になるという報道で、

銀行の就職人気ランキングは急降下。

 

労働生産性の分母は常に労働投入時間だ。

AIとロボットが人間の仕事を奪うことにより労働生産性は無限に高まり、モノの値段は無限に下落していく。

50インチ5万円の薄型テレビが5000円になる日は近い。

値段が劇的に下がっても世界の需要量が激増することはなく、

製造業を中心にその総収入を下落させるだろう。

 

エンターテインメントの世界では個人の活躍が目覚ましい。

閲覧回数に応じてユーチューブから支払われる報酬では、

日本でも数億円の年収を稼ぐユーチューバーが現れている。

世界でもっとも稼いでいるユーチューバーはプロゲーマーで、

自分のプレー動画をアップして18億円稼いでいる。

人気インスタグラマーにはフォロワーが数百万いて、ファッションアイテムや化粧品をPR投稿すると、1回で数百万円の広告料が入る。

 

山手線にカーラーを着けたまま、夢中で化粧している女性は、

化粧が仕上がると渋谷駅で降りて自撮り棒で撮影。

今日の自分のメイクとヘアをインスタグラムにアップする。

彼女にとってSNSで繋がっている自分の仲間だけが社会で、

インスタグラムに上がっている自分の投稿履歴だけが

リアルライフなのだろう。

現実が仮想ライフで、ネットがリアルライフの世界。

 

AIがもたらす大量失業とベーシックインカム。

BIが導入されることで、人は働かなくても暮らしていけるようになる。

このとき人は「人生は暇つぶし」と気付くだろう。

そして、フロイトの言葉がやっと腹に落ちる。

 

「幸せは熱中の中にある。自分は幸せか、

と問い掛けている人はすでに幸せではない」

 

人間がAI&ロボットより優れているのは心があって願望があることだ。

才能のある行為をしているとき、時の感覚が消える。

「熱中」して時間を忘れる。

子どもの頃に時を忘れて熱中していたことが才能である。

 

自分の直感を信じ体験することで「才能」が開花し「願望」が生まれる。

願望を抱き、「熱中」して取り組めば、また次々と才能が開花し、

それが自己実現につながる。

 

「世界を本気で変えられると信じていた人たちが世界を変えてきた」

 

 

 

 

 

教育によって子供たちの能力が開発されれば、

教育を受けた本人だけでなく、彼らを含む社会全体が利益を得る

という意味で、本来教育とは公共財である。

 

教育を受けた者には、そこで得たものを自己実現のためだけに

利用するのではなく、社会に還元することが強く望まれる。

だから多くの先進国では教育費の自己負担は最小限にされている。

 

しかし、日本では教育が立身出世の手段として広まった経緯がある。

そのため、教育を受けた本人のみが享受して当然とする

社会通念ができた。

教育が「勉強という役務と引き替えに社会的優位を得る商取引」

のようになった。

取引条件に少しでも偏りがあれば「ずるい」と感じる。

 

日本の平等至上主義的教育システムは、

この「ずるい」という感覚をベースに成り立っている。

 

今後インターネットを介して、さらに高品質な教育サービスが

日本全国に広まっていくだろう。

しかしそのときさらに大きな皮肉が露呈する可能性がある。

 

できる子は、鉄緑会に通おうが、インターネットで映像授業を

受講しようが、山に籠もって一人で問題集を解こうが、できる。

できない子は、できない。

 

平等を追い求めるほど「前提」の違いが露呈する。

「前提」とは、遺伝のほか、どんな家庭文化や学校文化に属しているかが強く影響していると教育学の世界では言われている。

 

できる子は、できる。

それも桁違いに。

 

かけっこが遅くても、寝ないで走り続けなさいとは言われない。

絵に興味のない子が、

及第点をとるまでデッサンを描かされることもない。

しかし、たまたま勉強という「種目」が不得意分野である子は、

努力不足だと叱られ、できるようになるまでやらされる。

 

勉強はした方がいい。

でも勉強「する」ことと、勉強「できる」ことは違う。

 

「前提」を無視した「自己責任論」

 

 

 

「夢を叶えられるのは結局才能のある人だけでしょ」

 

夢が必ず叶います、なんて言いません。

でも夢を持たずに夢が叶うことは絶対にない、というのも事実です。

 

たとえば東大に入るために一番必要なことは何でしょう?

それはやっぱり最初に「東大に入りたい」と本気で思うことなのです。

 

本気で叶えたいと思える高い目標を持てることは

それ自体が大きな才能だと思っています。

 

 

勉強とは本来、

知的好奇心への刺激と、世の中の真理と出会う感動を繰り返す

最高にエキサイティングな営みである。

 

 

 

 

好きに生きるには力がいる。

まず人生を謳歌するのを邪魔しているものは何か、を分析すること。

 

それは人か、経済力か、あるいは自分の思考か、体力か。

解決できるかものかを検証し、

できないものなら妥協点を見いだせるかどうか。

そのひとつひとつは面倒で気力と体力がいる。

それらは実は、老いのみならず、

若い時から実践し蓄えるべき力なのだ。

 

ある女性は、夫が仕事につかず、子育てとパートで鬱病になった。

夜中、恐怖心に襲われると眠れず、睡眠導入剤を処方してもらってる。

一番不安なことは「金がないこと」

いつまでも問題を解決しようとしないまま、

体が悲鳴を上げていてもズルズルと、自分が辛抱さえすれば家族が守れると信じ、夫が働きさえすればと、願い続けて辛抱して老いた。

その生き方を見て育った子どもたちの、

親を見送った後の影響にまで思いは及ばない。

 

辛抱とは、一見大変なことに聞こえるが、実は楽なことなのだ。

なにもしなければいい。

ただ辛抱すればいいのだから。

 

人生を好きに生きるのは、一見気ままに聞こえるが、実は力がいる。

なぜならそれは、好きに生きるのを阻害するひとつひとつの要因を

発見しては解決していく、ということの連続なのだから。

最も楽な生き方は、なにも感じないようにし、

人生はこんなもんだ、と諦めること。

傷つくことや怒りもなければ、そのかわり、喜びもない。

 

問題は若い時にはそれでもいいが、老いてもなおそう思えるかどうか、若いときには分からないということだ。

 

好きなことは突然生まれない。

長い歳月をかけて自分探りが必要だ。

自分に興味を持ち、自分に手間をかけないとできない。

自己犠牲は、他人に興味を持ち、他人に手間をかけてできあがる。

 

自分探りを続けていった結果として、

自分の周りが好きなことで囲まれる老後が待つ。

人生の完成度とは、長期マラソンのご褒美みたいなものだ。

完成度の高さはそれほど重要ではない。

そこに向かって走ることに意味がある。

だがそのレースに参加しないまま、その方法も分からないまま

老いを迎える人のなんと多いことか。

 

そういう時代だったから、では納得できない。

自由へと模索し時代と闘ってきた女性は、戦前からいるというのに。

子どものため、というけれど、

子にとって辛抱する女性を見て育つことは、

自由に生きる生き方を勉強する機会に恵まれなかったということだ。

 

家族という枠の中で、妻は収入を夫に依存し、夫は食生活すべてを

妻に依存し、親は子どもたちに老後の面倒を依存する。

人は老いを自覚しないまま「なんとかなる」「なんとかしてくれる」と、

老いが他人事になる。

 

歩けなくなり、見えなくなり、聞こえなくなった時どうなるか。

本当の老いは体かままならなくなり、

友達に会いに行けなくなってから始まる。

そこから延々と続く退屈をどう過ごすか。

 

健康でも好きに生きるのは難しい。

老いて好きに死ぬのはもっと難しい。

自由に生きて、自分の老いにしっかり気づき、

人生をいとおしむようにさらに自由に過ごす。

 

老いを保障するものはそれまでの人生であって、

保険会社や家族、金はみな老いの側面を補足するもので、

老いの根幹を支えない。

死への心構えこそが、今日を大切にさせてくれる。

 

 

 

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