どうも、プロレタリアです。

 

このブログは主に政治思想・社会について僕個人が思うことを投稿するスタンスなのですが、僕が普段読んでいる書籍の中から特に印象深いものを紹介するという記事も

書いていこうと思っています。

 

そこで初回第一弾はこちら!!

 

斎藤幸平さんの「人新世の資本論」

 

話題になっているので既に読まれている方も、未読だけどタイトルは知っているという方も多いかもしれません。

 

この本の詳しい解説をすることは僕のブログの趣旨ではないので、すばり、大事なポイントだけ抜き出してみたいと思います。

興味が沸いた方はぜひ読んでみてください! とても気軽に読めます。

 

では、ずばり言うと・・・

 

①現代社会に存在するあらゆる問題は、今の資本主義社会では克服できない

 

②経済成長を求め続ける限り、気候危機は止まらない。必要なのは脱成長

 

③社会の総人口の3.5%が本気で団結すれば社会変革は可能

 

以上の3点だと僕は感じました。

順に説明していきます

 

システムチェンジ

今の資本主義社会からの大きなシステムチェンジが必要ということです。

②とも類似性がありますが、要するに、資本を主体とし続ける社会体制である限り、

貧困・格差・気候危機などの環境問題は克服できない

ということです。

 

資本主義とは、「資本を史上の存在・主体とする社会」です。つまり人よりも社会よりも「資本」を最優先する社会です。

 

自分の過去の記事でも触れていますが、資本の性質とは、増殖です。

 

今日は昨日よりも、明日は今日よりも、と際限なく増え続けることを求めるのが

「資本の本質」です。

だからこそ資本主義社会では常に右肩上がりの成長が半ば脅迫的に求められ続けるわけです。

 

資本にとっては増殖こそが唯一絶対の正義ですから、その過程で発生する問題には

関心がないわけです。だからこそ、貧困と格差は広がり、地球環境はもう既に無視できないレベルにまで悪化している現状があるのです。

 

貧困・格差の拡大、温暖化を代表格とするあらゆる気候危機

 

こうした問題の根底には、何よりも資本の増殖に半ば呪われている人間社会の

構造的問題があるというわけですね。

この根底にある、資本主義というシステムを変えることなくしてあらゆる問題の

克服には決して至らないというのが本書の主張であります。

 

②脱成長

 

人類は常に経済に成長を求めてきました。企業活動の第一の目的は利潤の確保ですから当然最優先事項は経済成長な訳です。

 

もちろん、その経済成長で得られた恩恵も大いにあるわけですから全てを否定はできません。しかし、未来永劫「経済成長を追及する社会」は健全なのか

次の豊かさとは「利潤第一主義の経済成長の先」には存在しないのではないか

という疑問を本書では投げかけています。

 

日本社会は、既に十分に資本主義が発展しつくした社会であると思います。

国土の隅々までインフラが行き届き、一般庶民は多くのモノ(商品)に囲まれて生活しています。

 

未だに発展途上の国も諸外国を見れば普通な訳で、その中で言えば国際的にも相当な高水準の経済発展をした国でもあるわけです。

 

しかし、無限の成長など可能なのでしょうか。

現に、日本は失われた30年というワードが延々とメディアに取り上げられるほど、ここ30年成長せず停滞状態にあると言われています。

実際、賃金が上がっていくイメージを持てる人のほうが少ないのではないでしょうか。

 

つまり、これは成長の限界とみて取れます。

行くところまで成長したので、既に天井に頭を打ち付けている状態にあるのです。

おそらくそのことは多くの人が感じていることと思いますし、昨今の日本社会に漂う停滞感がそれを象徴していると思います。

 

それでも、われわれは「再び右肩上がりの経済成長」することを期待してしまうのです。これはある意味、成長神話に囚われているとも言えます。

 

かつてのような、経済成長という極めて資本主義的な価値観こそが、唯一の解決策だと思ってしまうのです。でも本当にそれは唯一の正解でしょうか。

脱成長と聞くとイメージが悪いですが、要するに資本主義のもとでの物質的豊かさの

追及のみがほんとうに豊かさなのか、という疑問をわれわれに提示している訳です。

 

ブランドモノに身を包み、高級車を乗りまわす。

服を頻繁に買い替える大量消費

 

これが本当に豊かさなのか、ということをもっと社会は考える必要があると思うのです。昨今では、サスティナブルという単語も頻繁に耳にするするようになりました。

 

今の資本主義社会はサスティナブル(持続可能なのか)と我々は今一度、立ち止まって考えるべきです。それに必要な前提として「脱成長」を斎藤さんは提示されているのです。

 

③3.5%の法則

ではシステムチェンジなどというとんでもなくスケールの大きなことは可能なのでしょうか。そもそも我々一般庶民にできることなどあるのでしょうか。

 

もちろんそう思う法が当然ですし、長らく伸びない投票率などにもその「諦め感」

は反映されているのが現実でしょう。

 

しかしです。過去にも人間社会は大きな変革というものを経験してきました。

それらについては今回は触れませんが、歴史を振り返れば「革命などの大きな社会変革」は度々発生しています。

 

それらは紛れもなく「人々」が起こしたものです。

そして重要な点は、決してその国の全人口が行動を起こしたというわけではなく

本気の「3.5%」の団結と行動が「社会変革」に繋がったケースが多いということです。それを3.5%の法則と表現します。

 

この法則を日本社会に当てはめるならば、仮に日本の総人口を1億2千万人とすると

3.5%は約420万人です。

 

もちろんそれでも膨大な数であることには変わりありませんが、

大変困難だが希望は見える!!

と僕は思います。

 

420万人ですから、神奈川県の人口の半数の人々が一致団結して社会運動などをすれば日本社会を大きく変えることができる可能性があるわけです。

 

この3.5%の法則を、そんなの無理だと思うか、それなら頑張ってみる価値がありそうだと捉えるかはあなた次第です。

 

社会変革の気運はいたるところに存在していると僕は考えています。

だからこそ、そうした行動する人々を少しづつでも繋げていくことができれば・・・

 

3.5%の法則は決して絵空事ではありません!!

 

僕はそう信じています。

個人で見れば権力者でも財界の人間でもなく何らパワーもありませんが、われわれ庶民は大きく団結すれば大きな力を得れます!

 

これからの時代は、もっとわれわれ庶民の持つ力を思い出すことが必要な時代です。

 

社会の停滞を嘆くだけではなく、自分ができることから行動しましょう!!

 

新たな日本社会を創るのは

 

大企業でも財界でも与野党でも一部の権力者でもなく、われわれ庶民であるべきです。

 

だからこそ、3.5%の団結・行動が最重要であり唯一の希望なのです。

 

今回はちょっとアツくなりましたが、今後は社会変革につながりそうな事例なども

取り上げていきたいと考えています。

 

では今回はここまで^^

 

プロレタリア

どうも、プロレタリアです。

 

安倍元総理の銃撃事件の犯人である山上容疑者と統一教会との関係が連日

メディアを騒がせている日々ですね。

 

この事件についても統一教会についても既に多数のメディアや記事も存在している

でしょうから、今回僕はこの事件に関連する別の現象について書きます。

 

 

皆さんは無敵の人という単語を耳にされたことはあるでしょうか。

 

ネットに触れている世代ならほぼ誰しもが以下のように認識していることでしょう。

 

無敵の人=失うものが何もない人間 に対する呼称であると。

 

つまり、カテゴライズですね。

この世の中にはあらゆるカテゴライズが存在しています。

例えば、世代間のギャップを論じる時などに良く使用されますよね。

「ゆとり世代」「Z世代」「悟り世代」などなど多数あります。

 

こうしたカテゴライズ自体を自分は否定するつもりはありません。

政治思想や経済分野、学術や芸術など様々な分野において、とある領域における認識を一致させるためにもカテゴライズする必要はあります。

物事をカテゴライズするということは文献などによって後世に研究成果などを受け継いでゆくことにも貢献しているでしょう。

 

しかし同時に、安直なカテゴライズ化は我々の想像力を奪う側面もあると僕は考えています。

 

カテゴライズとは、人や物事に対してラベルを貼ることだとも言えるからです。

 

人は、ラベルが張られたものにはラベルの良し悪しだけで判断してしまう節があります。つまり、中身を見たり、想像しようという意識が働きにくくなるのです。

 

これで言うと、例えば無敵の人というラベルが張られてしまった人は、ある意味個人として見てもらうことができなくなってしまうのです。

無敵の人=失うものがない人 というカテゴライズをされてしまうことで、本来なら

その人個人の特性であったりという部分に誰も目を向けようとはしなくなります。

 

だから、そのようなカテゴライズをされた人が事件を起こしたりすると

あーまた無敵の人か  失うものがない人は怖いなぁ 

となるわけです。

 

でもそもそもですよ?!  何故、接したこともない他人に対して

この人は失うものがないと定義することができるのでしょうか。

 

失うものがない、かなんていうことは当人にしか分かり得ないことであって

外野が勝手に決められることではないはずです。

 

だからこそ、人それぞれの境遇や内に秘めた感情を一切無視するような無敵の人に代表されるようなカテゴライズが流行することに危惧を覚えるのです。

 

〇〇は何々系だから~ Z世代だからどうこうとか

 

近年の日本社会はあまりにカテゴライズが先行している社会に思えます。

それはラベルで人や物事を見ているに過ぎず、理解を深めること、互いに歩み

よることには繋がりません。

 

そして、カテゴライズで他人を理解した気になり、その人の言動の裏側に存在する背景などを一切想像しなくなってしまうとむしろ社会と人々の分断は進行してしまうのではないでしょうか。

 

弱者に対する自己責任論にも似た部分があるように思います。

 

他者への想像力を失った人間社会というのは、豊かで成熟した社会と言えるのでしょうか。

 

想像力をもっともっと大事にする時代が来てほしいと願います。

 

今回はさらっとここまでにします。では^^

 

プロレタリア

どうも、プロレタリアです。

 

前回に引き続き、日本の労働者階級の分断について書きます。

 

前回は、「非正規」の領域に如何に「多様性」がもたらされたかという話をしました。もちろんこれはネガティブな意味での「多様性」です。

 

僕が一番深刻に思うことは、「正規」が以前として安定し守られた雇用形態であるのに対して、賞与、福利厚生などの諸費用をケチられた「非正規」という不安定な雇用形態が広まることで

 

日本の労働者階級は分断される。

 

↑この一言に尽きます。

 

シンプルなことです。

資本家・経営陣からすれば、「正規」も「非正規」も「労働者階級」に属する賃労働者であることに変わりはありません。

 

しかし、この「労働者階級」の中にさらに「正規」「非正規」という階級を創出する

ことで、資本家、経営陣にとっては大きなメリットがあります。

労働者階級内での分断が発生することで、上位階級はより安定した支配を続ける

ことができる」ということです。

 

かつて、労働者は「資本家・経営陣」に対して、一致団結してストライキという

労働者階級唯一の武器を行使することで自分たちの要求を通してきました。

圧倒的優勢に立つ資本家階級に関して、労働者階級が行使することのできる唯一の

力が「団結して意見表明する。場合によってはストライキをする」です。

 

しかし、昨今の労働者はその力を失ってしまったように感じます。

もちろんそれには様々な要因が考えられるとは思いますが、

 

「正規」と「非正規」によって「労働者階級」が分断されてしまったこと

 

非常に大きな要因であると考えています。

 

「非正規」という領域を広げたことにより、もはや「正規」は特権階級とさえ

感じられるようになってしまった、というのが思うところです。

 

人間は自分より下の存在を見て安心するという卑屈な本能を誰しも持っています。

正規雇用」の労働者からすれば「非正規」という下に見える階級の出現によって

 

「自分は恵まれているんだな」と自己肯定しやすくなります。

 

そして、これがさらに悪く作用すると

「不満が溜まった正規労働者が非正規労働者に八つ当たりしてガス抜きする

というひどく歪んだ構造が発生します。

 

実際、ネットなどの体験談では「正規による非正規いじめ、こき使うなどの搾取

の事例が数多く見受けられます。

 

本来ならば、労働者から噴出する不平不満は経営陣、そして資本家階級にも

責任があるわけですからそこにターゲットを向けるべきなのですが

 

まあ強いモノに盾突くより、下に当たるほうが簡単ですよね。

ということで、資本家階級からすれば「労働者階級」はどんどん分断し、互いに対立しながらガス抜きがされる状態が望ましいのです。

 

「支配体制」を脅かされませんからね

間違っても「労働者階級の団結」を望んだりするはずありません。

 

資本家が、より多くの利益を大株主様という頂点の支配階級に献上するために

とにかく人件費削減というコストカットを追及する。

 

そして、上位階級への不満の矛先を逸らす為にさらに「非正規の多様化」を進め

「労働者階級の分断」を煽るわけです。

 

これが、新自由主義です!!

 

「正規」「非正規」労働者の皆さん。

 

果たしてこれでよいのでしょうか。

このような歪んだ社会構造のなかで、「未来永劫椅子取り合戦」に明け暮れることが

豊かな日本社会なのでしょうか??

 

日本社会に漂う閉塞感、弱者に対して冷たくなる世論、少子化・・・・・・

 

これらの問題は、新自由主義に立脚すると僕は考えます。

 

大株主への利益最大化、目先のコストカット、与党と財界に媚びて法人税を優遇させる一部の超大手企業

 

新自由主義がもたらすのは、「多様性でも豊かさでもなく、分断とひずみです」

 

われわれ労働者階級にできることはそう多くありませんが、

・資本家階級の企み通りのガス抜きに甘んじない

・正規と非正規を越えて互いを尊重し、労働者階級内での分断を作らない。

・非正規はまず非正規同士で連携し、場合によってはユニオン(組合)を結成する

 

まずはこれらを意識することでしょうか。

 

そして何より、新自由主義からの脱却を目指す

 

↑これに尽きます!!

 

次の日本の豊かさとは、新自由主義を克服した先に訪れます。

 

皆さんもぜひ、次の豊かさとは何か、と想像してみてください。

 

それでは今回はここまで^^

 

プロレタリア