「何度も旅行に行くお金が続くね」とよく聞かれる。将来のことを思えば旅行で散財するのは愚かかもしれない。だが「漠然とした将来」のため健康な今の時間を浪費するのが道理とも思えないのだ。リタイアしてさあ旅行という訳にはいかないだろう。リタイアすれば同時にお金と健康の余裕も無くなるのだ。一部の仕事を除き概ね60代半ばを過ぎると仕事を離れ年金生活にはいる。まだまだ働けるのにと思っていてもこればかりは仕方あるまい。老人がいつまでも仕事にしがみついていては若い人の活躍の場がなくなるというわけだ。だから後進に道を譲るという美しい日本語があるのだ。本日、町内のウォーキングイベントのスタッフをして痛感したのは高齢者の多さだ。大半が仕事や子育てを終えた年金生活者たちだ。認知症などで施設に入って生活している高齢者がいる一方で、こうして地域で生活している高齢者もたくさんいる。この人たちが認知症にならず健康でいてくれないと困るのは若い世代だ。だからこの人たちを高齢者とは呼びたくない。高齢者には引退した余生を過ごすものという響きがあり、あまり耳障りの良い言葉ではない。まだ老人という古くからの言葉の方が「老人会」などといった元気なおじさん、おばさんのイメージがあって良い。そして老人には若い人に経験を語れる人生の先輩であって欲しいのだ。健康維持のため老人がテニスやダンス等に打ち込むことは良いことだと思う。だが、それが健康維持という限度を超えて「暇人の遊び」になってしまっては反発を買ってしまう。実際に老人が遊び歩いている姿を若い人たちがどう見ているかを想像すると恐ろしくなってくる。年齢を重ねて体力の衰えが目立つ老人=静、元気な若者=動が一般的なイメージだろう。ところが今では老人の方が元気で、若者が活力に欠けているように思えてならない。あまりにも若者が厳しい雇用環境に苦しめられ、余裕がなくなり明日への希望が見えなくなってきているからである。しかしそれでいいはずがない。若い時によく働き、よく遊び、よく学び、よく旅をしておかなければ、経験の少ない空疎な老人予備軍となってしまう。何とか若い世代が将来に希望を持ち生き生きと生活できる社会をすぐにでも作らなければいけない。もうそんなに時間的な余裕はないはずだ。老化現象の顕著な表れとして、年取って尿が近くなることが挙げられる。この状態に陥るともはや長時間の外出は困難になる。そうなる前に多くの経験を積んでおきたいのだ。老人となった時に若い人に語れる経験がないほど寂しいことはないと思う。経験は「働き」「遊び」「学び」「旅をする」ことから生まれる。老人の「動き」が目立つような社会であってはいけない。老人の動きが霞んでしまうほど元気な若い世代を作らなければならない。そのためには雇用を安定させることはもちろんだが、発想の転換が必要だろう。これまでのように現役は会社や役所と家の往復で過ごし、老人は毎日地域で過ごすのでは、地域での老人の発言力が高まるばかりだ。 若い世代が機会を見てどんどん地域に入っていき老人の知恵を借りつつ主体的に活動できる地域社会が理想である。暇な老人が主役の地域社会はそろそろ見直すべきときが来たように思う。