昨年8月に10日間のシベリア鉄道の旅を終えて帰国した頃から急に左膝が痛み出した。気にせずにトレセンに行って膝に負担をかけてみた。すると痛みが激しくなってきた。急遽自宅近くの整形外科で診察を受けた。レントゲンの結果、変形性膝関節症が疑われるという診断が出た。湿布と痛み止め、そして膝を赤外線で温め、患部に電気を流す治療が半年間続いた。膝に直接ヒヤルロン酸の注射も試みた。だが痛みは収まらなかった。年が明け掛かり付けの整形外科医から骨壊死の疑いがあるので横浜市立市民病院でMRIの検査を受けるように指示された。そして紹介状を持って市民病院でのレントゲンとMRI検査の結果、恐れていた骨壊死が起きていることが判明した。突発性左膝大腿骨内顆骨壊死症。しか もかなり骨が潰れてしまっており早めに手術が必要ということだった。手術は高位脛骨骨切り術と骨の一部の移植手術だった。患部を取り除き健康な骨を移植し足の湾曲を矯正するというものだった。主治医は竹内剛先生というベテランの整形外科医。入院前日。明日から入院明後日手術。入院期間は3週間から4週間の予定。当分の間病室暮らしとなる。残念ながら今年のGWの旅と夏の海外鉄は来年以降に延期となった。退院後の旅は8月に今月予定して行けなかった東北縦断の旅からとなる予定。病室では読書三昧の日々を過ごす予定だ。3月14日月曜日。子供二人に付き添われて横浜市立市民病院に到着。



受付を済ませ、病室に向かう。病室は満室だった。先に入院している患者さんに挨拶を済ませた。子供ふたりと、8階のレストランで昼食。これからしばらくは病院食。当分食べられないと思い焼き肉を注文した。子供たちと別れ病室に戻った。夕食までの時間をベッドに横たわって過ごした。夕食時間。病人は病室に運ばれた食事を食べる。これが意外と旨い。昼は天ぷら夕食は青椒肉絲だった。こりゃいける。でも本を読む気にはなれない。やはり明日の手術控えているから落ち着かない。シャワーも浴びた。でも明日は酸素マスクをつけて管を挿入されるのだ。21時半に消灯となり今は読書灯の下で操作している。電話は指定場所以外禁止だがメールやPCは病室OK。テレビはカード式だがイヤホンでスマホから音楽やラジオを聞くことにした。早速Googleplayからネットラジオをダウンロード。相撲中継を聞いた。音楽配信からも数曲ダウンロード。昨年10月には高齢の叔父の診察から入院手続きまでこなし、2月には親父を老健施設に入所させるため奔走した僕が今度は逆の立場にいる。明日の手術後暫くは苦痛と不自由との戦いだろうが少し落ち着いたら読書の傍ら入院ツイートを発信する予定だ。人生二度目の全身麻酔の大きな手術。何れも膝の手術。これも何かの因縁だろう。病院には仕事で手が離せない嫁に代わり娘と息子が付き添ってくれた。明日の手術は2時間以上。春休み中の息子が付き添ってくれるようだ。大学3年生。就活を前に有り難い。様々な方から励ましを頂いた。感謝感激である。膝関節壊死症の治療のための手術入院。入院は蓄膿症手術以来17年ぶり、膝の手術となると実に12歳の時以来となる。人間というのはいかに年月を経ていても一度受けた経験は消えることは無い。恐ろしい手術を前にした今、何よりの力となっているのは過去の手術の記憶だ。執刀医の医師が巡回に来た。今日の午後一に手術だと告げられた。昨日麻酔科の医師に全身麻酔についての説明を受けた。いよいよ本番だ。昨日の夕食を最後に食事は禁止。10時から水も禁止。これまでの苦痛を思えば手術で根本的に治療してもらえるのは有り難いことだが目の前の手術が怖いのは何故か。



病院のベッドに横たわっていると様々なことが脳裏に浮かぶ。僕はこれまで自分の力で人生を生きてきたと自惚れていたがそれがいかに間違っていたかと言うことだ。様々な人の力と公的負担が無ければ生きてこれなかった。親、医療保険制度、介護保険制度、保育園、学校…。人に社会に支えられている自分。僕は今日の午後に膝の手術を行うが、そのあと3~4週間の長い療養生活が続く。もし社会保険の高額療養費制度がなければ手術も入院もおぼつかないだろう。脳や心臓等命に直結する病ではない。足一本失われるかという病でもこんなに手厚い治療を受けることができる。日本人でよかったとしみじみ思う。いまなお認知症の父親を預かってくれる老健施設無しでは仕事をすることも僕自身の長期入院生活すらも儘ならない。 医師という仕事について考えた。理系の最も優秀な生徒が進む医学部。受験生には最難関の学部。大学では解剖も含め6年間も厳しい医学を学ぶ医学生。医師国家試験をパスした先には長く厳しい人命と向き合う日々が続く。「医は仁術」古から語り継がれる言葉。患者は医師に全幅の信頼を置いてオペを待つ。午後膝関節壊死症の手術を受けた。手術着に着替える。上半身裸。後ろから着用。割烹着のよう。下半身は?もちろん産まれたままの姿だ。始めに痛み止の麻酔。そのあと全身麻酔。一瞬で眠りにつく。目が覚めるとリカバリールームに横たわっていた。尿道が痛い。何と尿道の先には管がついている。手の甲には点滴の管。いろんな管が繋がっていた。そろそろ麻酔が切れる頃。猛烈に痛い。痛みの強さでは10段階で8というところか。食事は朝まで抜き。腹が痛い。昨日から便秘ぎみだったが病院のベッドに横たわると更に痛みが増す。看護師さんに車イスに乗せてもらい車イストイレにgo!入院6日目となった。本来なら今日から東北太平洋岸縦断鉄旅に出る日だった。震災から5年目の東北3県の復興の様子を鉄道とバスを乗り継ぎ確かめたかった。ボランティアで訪れた釜石市の鵜住居地区や大槌町の様子、原発避難区域の様子も可能な限り見ておきたかった。旅行計画は出来ていた。残念だ。医師の巡回で手術後初めて傷口を見た。ホチキスのようなもので簡易止めされていた。恐らく手術から2週間後にボルトを抜く再手術があるからだろう。入院中2度の手術。今度はどんな痛みに襲われるのか不安もある。何故リハをすぐやるのかも解った。骨のボルト抜きの前に筋力の回復を図るためなのだ。同室の患者さんが次々退院していく中で取り残された感じだ。早く病室生活を終えて家に帰りたい。仕事もしたい。鉄道にも乗りたい。だが今月中の退院は無理のようだ。今日も音楽を聴いて友達から借りた柔道家木村政彦の伝記を読んで気をまぎらわすことにした。入院生活も今日で一週間となった。看護師の手を借りないと何もできない状況から、今では松葉杖でトイレや売店に行くこともできるようになった。リハビリのお陰でベッドから足を下ろして食事できるようになった。だが壊死した骨を削り取った後の骨の移植がまだ安定しておらずボルトも固定されたままだ。病床のベッドでのリハビリも7日目。看護師さんが来て膝曲げの機械をセット。昨日は110°でしたねと最初から110°にセット。ぎょっ!一寸待って。にっこりされると「頑張ります」と言ってしまう。苦痛に歪む。たまらず5°下げる。1時間のリハが辛い。徐々に角度を上げ115°でフィニッシュ。



入院生活も10日目となった。同室の患者が次々退院していく中で、いつの間にか一番の古株となってしまった。膝以外はどこも悪くないので病室にいるのが不思議な気がする。人によっては数日の入院で退院許可が出ているので、なぜあと10日も入院が必要なのか少し心配ではある。さあ今日もリハビリだ。リハビリを頑張ったお陰か、手術後の回復が順調に進み早ければ今月中にも退院できる目処がたった。退院後もしばらくは松葉杖生活だろうが、主治医の先生からの「順調」の言葉は何よりの励みとなる。皆様からの温かい励ましが通じたのかもしれない。あと少し頑張ります。

病気で心が折れているせいか、親切に介護してくれる看護士さんが慈母に思えることがあった。常にパソコンに血圧、脈拍などを入力し医師に提供。消灯後は排泄の介助までしてもらう。手術の時に立ち会う看護士さんもいる。入院して分かる看護士のありがたさ。「白衣の天使」という言葉は本当だと思った。入院16日目、手術から2週間。今日午前抜糸しました。明日午後退院です。皆様の温かい励ましとリハビリの甲斐あって予定より1週間早く退院できることになりました。今週末金曜日4月1日から松葉杖姿で出勤です。本当に有り難うございました。退院はするものの松葉杖が取れるまであと2~3週間。さらに毎月2回市民病院に定期通院を続ける必要がある。全治1年。これほど長く通院するのは初めての経験である。来年3月再び入院して骨に埋め込んだボルトを取り去った時ようやく完治する。戦いはまだ道半ばだ。入院17日目。遂に退院の日の朝を迎えた。天気は上々。最後の朝食が配膳された。温めた食パン、ウインナソテー、杏仁豆腐、牛乳の洋食メニュー。いつもおいしい食事を有り難う。この後、ナースステーションに挨拶し、会計を済ませて帰路に着く。