虚無主義者ナフタ | In my place

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受験勉強、あるいは、文学や哲学、歴史などについてつらつらと考えたことや感じたことを書き連ねています。

「魔の山」後半における主題の一つとなるのが、虚無主義者ナフタと人文主義者セテムブリーニとの幾度にもわたる論争である。

中世的な神秘主義を奉じて、肉体に対する精神の絶対的優位を主張するナフタはまた、社会主義者でもある。社会主義者と言っても、ドストエフスキーの小説にしばしば登場する社会主義者とは幾分毛色が異なる。
彼らのように、「教会の鐘の音よりも、パンを満載した荷車の車輪の響きの方が素晴らしい」というような徹底した現世主義を掲げるのではなく、むしろ現世の虚無を主張して、来世との架橋役であるカトリック教会の下での教権的支配に基づく共同社会の建設を説く。

これで察せられるように、ナフタは、虚無主義の大家ニーチェのように虚無主義を徹底してかえって弁証法的に「幼子のような」現世肯定にいたるという道ではなく、むしろ、好んで虚無の混沌の中に沈潜しようとする神秘主義の道を進む。
従って、その理論は、雄弁でありながら、論理を破壊しようとするもので、黒魔術師的ですらある。

そのため、人文主義者を自負するセテムブリーニと真正面から衝突することになるのである。

次の投稿では、そのナフタとセテムブリーニの論争の限界を形作る要因について考察して行きたいと思う。