みなさま、こんにちは。

ついに6月になりましたね。名実ともに夏が始まりつつあるといったところでしょうか。

私は昨日鱧をいただき、今日は6月になったら始まる恒例の冷麺を行きつけの店で食べてきました。やはりこういった季節感は大切なんだなぁと思います。



さて、今回は言葉の話を少し話していこうかと思います。前回の記事の中で今回はちょっと繊細な話題にするといっていましたが、それは次回に流すことにしました。今回こそはコラムみたいな簡易的な記事にしようかと思います。


というわけで、今回は言葉、文章の話をしようと思います。

わかりやすい文章とはどういったものだと思いますか?

諸説あると思いますが、極力形容詞等の修飾する言葉をなくすことでわかりやすいものになるという意見もあります。

私の意見としては、それも一種の正しいアプローチであると思います。でも、それだけが答えではないとも思います。なので、それについて今回の記事でまとめていこうと思います。


まずは、文章を洗練させていくべきであるという方からアプローチしていきます。

「私は昨日朝ごはんを食べてなかったことが原因で昼にとてもお腹が空いたけれど、家にインスタント食品を含め食べることができるものは何もなかった。なので私は家で寝ていたかったけれど、億劫な気持ちを抑え込んで生きるために仕方なくローソンまで足を運ばざるを得なかった。」

こんな例文を用意してみました。あまり例文として適切ではありませんがご容赦くださいますよう。

この文章、自分で読むのもめんどくさいなと思うほど情報過多な文章になっていると思います。

メインの情報は「私は昨日ローソンへ行った」です。そこに色々情報が重なってあの文章になっています。


このような文章は、読む文章としてはまだ理解ができるのですが、話す文章としては非常に理解することが難しいというかめんどくさいものになっていると思います。

このような文章を目の当たりにすると文章をできるだけシンプルにしようとする気持ちもわかります。事実、私もこのような文章を見るともっとちゃんと推敲した方がいいと思います。

しかし、このように情報を付け足すことが状況を的確に伝えるのに必要不可欠であることもまた一つの事実です。

例文を取り上げると、「朝食べていない」「家に何もない」「家を出たくなかった」「食事を生きる手段として考えている」といった情報を得ることができると思います。

このように、より正確に情報を伝えるためには文章が長くなってしまうという側面もあります。


こういったことは事実を伝えるということのほか、感情を伝えるという際にも問題になると思います。というか感情の表現の時の方がよりシビアだと思います。

感情を表現するということは非常に難しいものだと思います。なぜなら、様々な事情、現在から過去まで事実から精神状態、価値観まで非常に膨大なものが相互作用しあって感情が生まれていると考えられるからです。

私は自分の感情を正確に表現することはどれだけの時間や言葉があってもできるものでないと思います。

だからこそ直観的に感じ取れる小説とかは非常に有用というかいいものだと思います。前回の話に戻ってしまいますが。

先日私が読んだ本、天沢夏月氏著の「七月のテロメアが尽きるまで」という本の一節で恋愛感情ではない、相手を想うと胸が締め付けられるような尊い感情を「透明」と名付けていました。私はその「透明」という感情が非常に印象に残っています。

皆様もご存知であると思いますが、透明とは感情を表す言葉ではなく色を表す言葉です。作家というある種文章のプロがそのような共感覚に頼っているとも言えるような表現を使っている。説明するのではなく読者に直感的に理解するように表現している。それほどまでに感情というものは複雑で奇怪なものであるとも言えるのかなと思います。



結局現実を完璧に表現することは人間の言葉ではできないということなのかもしれません。事実を表現することはどれだけ事細かにしても完璧ということはできないと思います。どれだけ突き詰めてもどこかに見落としてしまうものがあると思います。

なので、表現する際は情報発信者の裁量になってしまうということだと私は思います。

発信者がどこまでの情報を組み込む、組み込みたいのか、組み込むべきなのか。自身の気持ちや媒体、状況など様々な要素を考慮してバランスを取ることが肝要だと思います。



さて、今回はこの辺で終わりにしようかと思います。

今回は軽めに収められたのかなと思います。

次回こそは難しい話になるかと思います。それでは。



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