これには「愚痴」というより、「異物を眼前に、底のない溝のごとき痛切なる諦念」なぞというピアノ練習曲かフレンチのショコラ系デザート風の呼称が似合うのだろうな。


「もう、この話はしたくない」「もう、こういうことはしないで欲しい」

ある物事につき自分にとって不快なことだから終了させたいと要望し、相手が「分かった」と返したその直後にやめた筈の話を蒸し返す、という行動を取る方は結構いるのですね。

上記のごとき態度を取られた時、かつて私は相手が何をしたいのか分からなくて、事情が変わったか何か特殊な理由でもあるのか何故そうするのか、相手を理解しできるだけ善処してあげたいと思い話に付き合ううちに、ストーカー扱いされたことがあった。私としては「あなたが蒸し返さなきゃそこで終わった話じゃん」だが、このような人物は根本的に物事の筋というものが分からないのだろう。自己責任意識が欠落しているのだと思い知らされて終わることになった。

どうもある種の人たちにとって、「相手の話を丁寧に聞いて理解しようとする態度をとる者」は、「頭の中の妄想を投影しやすい器」として映るようだ。

「もう、この話はしたくない」に「分かった」と返した時点で、発言権は消滅する。その後、終了させた筈の話を蒸し返すというのは、要するに相手の発言を封じて自分の見立てを一方的に押し付け、世界を「ワタシ色」に染めたいのだろう。

対話につれ、相手の理解がどうもおかしいなと引っ掛かりを感じ、しつこいくらいに繰り返し念を押して説明した筈のことが、彼ら彼女らの頭からはきれいさっぱり消えていることに気付くことがママある。

「ワタシ色」にそぐわない現実は、排除。

やめてくれ。自分の発言には矜持を持って行動してくれ。

しかしこのような人物に限って、「思想良心の自由」や「表現の自由」「個人の幸福を追求する自由」を尊重していると公言する。

「理解する」と「同意する」は違うからな。
「『同意した内容』に『従う』か『否』か」は、更に別次元だからな。



私の発言権を封じ、私がいなくなった空間で、私が否定した筈の物事を私が実行していることにされ、私に対する「心配」という体裁の過干渉が繰り広げられる。どこのパラレルワールドか。

いずれこのような精神構造の人に関わり続けてろくな目に合わないことは骨身にしみているので、速やかに離脱することにしている。