「元少年A」から途切れた手紙 神戸連続児童殺傷21年 5/19(土) 8:00配信
1997年に神戸市須磨区で起きた連続児童殺傷事件で、小学6年生だった土師(はせ)淳(じゅん)君(当時11)が亡くなってから、24日で21年を迎える。父の守さん(62)は命日を前に、朝日新聞の取材に応じた。当時14歳だった加害者の男性(35)から毎年届いていた手紙は、今年はまだ届いていないという。
「手紙を書くということが、自分が起こした残忍な事件に向き合う唯一の方法であり、遺族との唯一の接点だったはずだ。書き続けてほしかった」。毎年、2~3月に手紙は届いていたといい、「今年はもう来ないでしょう」と話す。
男性は2004年に医療少年院を仮退院した後に手紙を送り始めたが、15年に突如、遺族に知らせずに「元少年A」として手記「絶歌」を出版した。守さんは「遺族をさらに苦しめる、二次加害だ」と強く抗議し、16、17年は手紙の受け取りを拒否した。
男性の手紙を読む作業は、精神的な負担が大きかった。それでも「なぜ淳の命が奪われたのか」を知りたい。それが親の責務と思い、読み続けてきた。
「私が受けとらないことと、彼が書かないことは別。ずっと受けとらないわけではない。何年、何十年かかるか分からないが、彼が自分なりに考える時が来てくれたらと思っていた」。手記の出版で、すべてが台無しになったと感じている。
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朝日新聞社
世間受けの悪い意見であることは重々承知している。
私はこの被害者遺族が理解できない。
息子を殺されたことが「許せない」のは分かる。不特定多数の人の目に触れるよう息子の死に際を綴り、金銭を得たことが「許せない」ことも分かる。少年Aからの手紙を受け取るのが嫌になり「拒否する」のも分かる。
分からないのは、被害者父親が少年Aを全く理解しようとしない点だ。
「少年A」この子を生んで……―父と母悔恨の手記(1999/4)
少年Aの両親が書いたことになっている(ライターによるインタビュー記事のまとめ)この本を私は発売当時に読んだが、母親の無理解と一方的な解釈が彼にとって過剰な負担であり、追い詰められていく過程が良く分かった。そんな母親に違和感を持たない父親や、少年Aが「問題児」となってから、しかも「注意すべき悪人」として見るところからはじめた周囲の大人たちも疑問であった。
息子の死が癒えない苦しみだというのなら、自分と同じ苦しみを味わう者が新たに現れることがないよう手を打ちたいと思うものではないのか。
少年Aが生まれざるを得なかった条件を洗い出し、公的に打てる対策はないか、犯罪に至る道を迂回し得る手段はないか、社会に働きかけるものではないだろうか。
それは少年Aを理解することから始めざるを得ない。
許す、許さないとは別次元の問題だ。混同されては困る。
これまで少年Aと被害者遺族がやりとりした手紙の内容は知らない。しかし、発表した手記に抗議を受け、その後送った手紙を2度拒否されたら「手紙が届くことすら嫌なのか」と、私だったら解釈する。余計な刺激を与えたくない、それが自分にできる最大限の配慮だとする。「自分が起こした残忍な事件に向き合う唯一の方法であり、遺族との唯一の接点だったはず」である手紙を送らなくなった理由を、被害者父親は考えたのだろうか。というより、抗議したという「絶歌」にしろ、そもそもまともに読んできたのだろうか。まさかとは思うが、被害者父親の検閲を受けた心情、意見、行動、以外の少年Aの現実は、一切、却下するのだろうか。
「少年Aにとって、自分が行った行為がどう受け止められるか」
一貫して、被害者父親にはこの視点がない。
「なぜ淳の命が奪われたのか」
私には、被害者父親が犯罪の陰に潜む日本社会のひずみに自ら対峙せず、安定した被害者の地位に居続けたいだけの人としか思えない。
1997年に神戸市須磨区で起きた連続児童殺傷事件で、小学6年生だった土師(はせ)淳(じゅん)君(当時11)が亡くなってから、24日で21年を迎える。父の守さん(62)は命日を前に、朝日新聞の取材に応じた。当時14歳だった加害者の男性(35)から毎年届いていた手紙は、今年はまだ届いていないという。
「手紙を書くということが、自分が起こした残忍な事件に向き合う唯一の方法であり、遺族との唯一の接点だったはずだ。書き続けてほしかった」。毎年、2~3月に手紙は届いていたといい、「今年はもう来ないでしょう」と話す。
男性は2004年に医療少年院を仮退院した後に手紙を送り始めたが、15年に突如、遺族に知らせずに「元少年A」として手記「絶歌」を出版した。守さんは「遺族をさらに苦しめる、二次加害だ」と強く抗議し、16、17年は手紙の受け取りを拒否した。
男性の手紙を読む作業は、精神的な負担が大きかった。それでも「なぜ淳の命が奪われたのか」を知りたい。それが親の責務と思い、読み続けてきた。
「私が受けとらないことと、彼が書かないことは別。ずっと受けとらないわけではない。何年、何十年かかるか分からないが、彼が自分なりに考える時が来てくれたらと思っていた」。手記の出版で、すべてが台無しになったと感じている。
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朝日新聞社
世間受けの悪い意見であることは重々承知している。
私はこの被害者遺族が理解できない。
息子を殺されたことが「許せない」のは分かる。不特定多数の人の目に触れるよう息子の死に際を綴り、金銭を得たことが「許せない」ことも分かる。少年Aからの手紙を受け取るのが嫌になり「拒否する」のも分かる。
分からないのは、被害者父親が少年Aを全く理解しようとしない点だ。
「少年A」この子を生んで……―父と母悔恨の手記(1999/4)
少年Aの両親が書いたことになっている(ライターによるインタビュー記事のまとめ)この本を私は発売当時に読んだが、母親の無理解と一方的な解釈が彼にとって過剰な負担であり、追い詰められていく過程が良く分かった。そんな母親に違和感を持たない父親や、少年Aが「問題児」となってから、しかも「注意すべき悪人」として見るところからはじめた周囲の大人たちも疑問であった。
息子の死が癒えない苦しみだというのなら、自分と同じ苦しみを味わう者が新たに現れることがないよう手を打ちたいと思うものではないのか。
少年Aが生まれざるを得なかった条件を洗い出し、公的に打てる対策はないか、犯罪に至る道を迂回し得る手段はないか、社会に働きかけるものではないだろうか。
それは少年Aを理解することから始めざるを得ない。
許す、許さないとは別次元の問題だ。混同されては困る。
これまで少年Aと被害者遺族がやりとりした手紙の内容は知らない。しかし、発表した手記に抗議を受け、その後送った手紙を2度拒否されたら「手紙が届くことすら嫌なのか」と、私だったら解釈する。余計な刺激を与えたくない、それが自分にできる最大限の配慮だとする。「自分が起こした残忍な事件に向き合う唯一の方法であり、遺族との唯一の接点だったはず」である手紙を送らなくなった理由を、被害者父親は考えたのだろうか。というより、抗議したという「絶歌」にしろ、そもそもまともに読んできたのだろうか。まさかとは思うが、被害者父親の検閲を受けた心情、意見、行動、以外の少年Aの現実は、一切、却下するのだろうか。
「少年Aにとって、自分が行った行為がどう受け止められるか」
一貫して、被害者父親にはこの視点がない。
「なぜ淳の命が奪われたのか」
私には、被害者父親が犯罪の陰に潜む日本社会のひずみに自ら対峙せず、安定した被害者の地位に居続けたいだけの人としか思えない。