ウチの学校の学年主任は、よくこう言います。

「完成とは、諦めだ。」

物事に完成品は存在しない、完成と言ってしまったら、それは諦めである、と。

飽くなき追求をすることも場合によっては必要だということですね。



例えば、掃除を例にあげてみましょうか。

丸一日かけて、一つの部屋を掃除したとします。

その人は、掃除が「終わった」といいます。

これは、「完成」ではなく、「諦め」ですよね。

だって、全部綺麗に掃除したからって、100%の汚れが落ちるなんて、ありえないことですよ。

しかし、一般の家庭で100%を求めて掃除しつづけるなんていうのは馬鹿らしいことで。

そこは諦めざるを得ないでしょう。まぁ、せいぜい2回まででしょうね。


しかし、会社の考え方でいくと。

携帯電話を、開発したとします。

外で、電話ができるようになった!

この観点で行けば、ある意味「完成」に見えるわけです。

ただ、そこには、「より軽く小さく」「もっといろんな機能を」「電池が長持ちするように」と、飽くなき追求をし、なるだけ便利にしようとするのです。写真や動画といった機能がついても、まだまだ進化しつづけるその姿は、まさに「諦め」てないからでしょう。


完成とは、諦めである。


それは人そのものにも言えることでしょう。