運命という言葉がある。
今読んでいる小説の一節に、
「私と妻帯者の彼は、抗うことのできない暗い運命の中へと・・」という一文がある。
しかしそれは、断言して、運命ではない。
運命をこういう台詞で使われることは嫌悪の至りである。
不倫中のその女性はそれを運命としてドラマティックな言い訳に利用しているに過ぎない。
あ~、自己陶酔。自己演出。理性のない欲望。
運命は免罪符ではない。
不倫恋愛だけではない。
「運命の恋」「運命の出会い」「運命の人」・・
人はそれを運命と呼びたがる。
でもどうだろう、それは本当に運命なのだろうか。
多用されている運命なんて、後付けであり、短期間の結果論だ。
人は、「運命のリストラ」「運命の怪我」「運命の不合格」・・
悪いできごとに運命ということを持ち出さない。
それはなぜ?
運命として呼んでいるものは、欲求であり、欲望であり、
これを運命としたいという、そういう感情の傘として軽用されている。
「運命の彼」と嬉々として呼んでいた愛が、5年もせずに終わるのはなぜか。
命と等しい運が、短期間で消失し、そして次の運命を探したり見つけたりできるのはなぜか。
私と彼の出会いは運命ではない。
この出会いを大事なものとしよう、とは決めた。
自分でそうしていこうと決断して(それは容易ではなかった)、確かにその自分を感じた。
自分で決定したのであり、それは向こうからやってきたのでも、
その後ずっと自動的にそばにあったものでもない。
出会ったとき、私たちのあいだには透明の糸があった。
それを赤く塗ろうと決めたのは私であり彼であった。
赤い糸は天に任せて垂れてくるものではなく、
多くの棄権とたったひとつの頑固な決定によって出現する。
私かあるいは彼が自発的な心組みをとめたとき、愛は終わるだろう。
相手任せにしたり天に任せたりして自己決定を惜しんだとき、心は離れるだろう。
私の明日は、私の出会いは、いつも自分が決める。
誰かが助言したとしても何かに影響されたとしても、
私ではない誰かが私に代わって私の人生で行動することはできない。
運命という言葉を私は容易にそれに充てない。
いつかきっと、言葉が見つからない何かに身も心も絡め捕られる時が来る。
その時、私(と彼)の人生に伏在していた運命という夢幻のエレメントが、
明視明触の実体として出現するのだと、私は思っている。
2000/02/18 記 加筆修正