若菜はさっそく、美咲にその日の出来事を伝えた。待ちわびた大輔との再会、美咲さんも喜ぶはずだ。若菜は美咲の反応を楽しみに電話をかけた。
しかし、この朗報を、美咲はまたしても複雑な心境で聞くことになった。今年はクリスマスが日曜日にぶつかり、美咲には仕事でその日に大量のギフト発送が予想された。そして、そのハードルをクリアするのは限りなく難しかったのだ。
そんな美咲を救ったのは、会社の同僚たちであった。大輔と別れた時にも、朝まで美咲に付き合うほど、強い絆で結ばれていた。いつもと様子が違う美咲に、明菜が話しかけたのがきっかけであった。
「今度の金曜日、7時から3時間だけはずしたいの、大輔と会えるのは、もうその日だけだから…。でも、その日はお仕事が…。」
美咲が事情を話すと、同じ部署の智恵たちが美咲の背中を押した。
「会ってきなよ、ミサ。その時間帯は私たちがカバーしてあげるからさ。」
「2年前に私もその部署にいたし、終わった後、みんなで夜通しやればなんとかなるさ。何より、ミサが後悔しないためにも、ね。」
彼女たちのおかげで、美咲は最後の壁をクリアした。1年近くの間、2人の再会を阻んでいたものは全て取り除かれた。そして当日、若菜と待ち合わせ場所で合流した。
「大輔さん…本当に来てくれるかな…?」
「大丈夫ですよ、きっと。最後ですし、大輔さんを信じてみましょう!」
期待が膨らんでいく一方で、不安で揺れ動き、折れそうになる美咲の心を、若菜は懸命に支えた。
8時50分、若菜も本当に来てくれるか不安になり始めた時、大輔が2人の前に姿を見せた。
「久しぶりだね、大輔…。」
「そうだな…。ずっと待っていたみたいだし、近くでちょっと休んでからにするか?」
「ううん、ありがとう。大丈夫だよ…。」
美咲がそう言うと、大輔が少し先を歩き、その足でそのまま井の頭公園に向かった。
「元気…だった?」
「まぁ…な。美咲は?」
「それなりには…。まだ、フットサルは続けているの?」
「ああ、一応な。仕事のほうは最近はどうだい?」
「うん、まぁ、何とか…。」
お互いの趣味や仕事といった、当たり障りのない話題がとりとめもなく2人の間で交わされた。それはまるで、山なりのボールだけでキャッチボールをしているようであった。
そのうち、井の頭公園のステージ前まで2人はやってきた。最初に踏み込んだのは、美咲の方からであった。
「そういえば、あさってのクリスマス、どうするの?」
「ああ、祐実と…今の彼女と出かける予定だよ。美咲は?」
「私は、特に…。お仕事の後に職場のみんなで近場で美味しいものを食べに行くくらいかな。」
2人の話は、ゆっくりと、しかし、確実に核心に近づいていった。そして、美咲がずっと言えずにいた言葉を大輔に伝え始めた。
「去年のクリスマス、初めての2人でのクリスマスで、すごく楽しみにしていたんだ。だから、大輔さんが急に来れないってなった時に、期待を裏切られたって感情的になっちゃったんだ。本当は、そんなはずあるわけなかったの、頭では分かっていたはずなのにね。ゴメンね、困らせちゃって…。」
偽らざる美咲の本心であった。その瞬間、凍てつかせていた美咲への感情が、大輔の中で一気に溢れ出した。
「俺も…本当はずっと後悔していた、あの日のことを…。」
大輔がようやく本心を語り始めた。美咲は、先ほどまでと変わらず、少しだけ微笑んで、大輔の言葉を聞いていた。
「あの日は、本当に全ての歯車が噛み合っていなかった。翌日の納期に間に合わせて作っていたプログラムにバグが見つかり、さながら戦場みたいな状況で、君に十分なフォローさえできずに傷つけてしまった…。こうなる運命だったと無理矢理にでも納得させて、君を忘れようとした。でも、このカギまで捨ててしまったら、君に会って、あの日のことを精算する機会すら失われてしまう気がした。それに、怖れてもいた。今の彼女がいながら、君に会って、もう一度、君とやり直したいと考えてしまうんじゃないかと。」
美咲は静かに、それでいてまっすぐに大輔の話に耳を傾けていた。そして、大輔は自らが出した答えを、美咲に告げた。
「それでも、今日会って確信したよ。今の俺は祐実を…今の彼女を大切にしたい。美咲、君には辛い現実だとは思う。でも、解ってほしい…。」
美咲もまた、大輔の問いに答えを用意していた。
「うん、そうだね。あなたはいつでも前だけを見てきた。そして、これからもそういうあなたであってほしい。だから…さようなら、大輔さん。今の彼女を、大切にしてあげてね。」
「君もな、美咲。幸せになってくれよ。」
そう言うと、大輔は一度だけ振り返り、あるものを美咲に投げ渡した。そして、そのまま振り返ることなく、2人の前から去っていった。大輔が最後に渡したもの、それは、あのクローバーのカギであった。
「終わった…のね?」
若菜の問いかけに美咲は小さく頷いた。そして、静かに話し始めた。
「私ね…今日、1つ自分自身に誓ったの。大輔さんとは、何があっても笑顔で別れるんだって。先生のおかげで、私は大輔さんとの思い出に終止符を打てた。今は、何だか、すごく肩の荷が降りたって感じなの。」
偽りのない美咲の本心であろう。しかしすぐに、若菜は美咲のもう1つの本心を知ることになった。
「でも…どうしてだろう…。顔は笑っているはずなのに、涙が溢れて…止まらないんだ…。」
若菜はまた思った。別れに辛いサヨナラなんて無い、と。そして、それでも、これが彼女にとって未来を歩けるきっかけになればと。若菜は美咲の感情を全身で受け止めた。そして、あのカギは双葉のキーホルダーにかけて、井の頭公園の池に投げ込んだ。2人が愛し合っていた時を永遠に留めておくために、そして、その証として…。
数日後、若菜のもとに美咲から手紙が届いていた。手紙には、若菜への感謝と美咲自身の新たな決意が記されていた。
「先生、この前はありがとうございました。大輔さんとの思い出に区切りをつけることができ、私の中でずっと止まっていた時間が、ようやく動き出しました。私ももっと幸せになって、いつか、大輔さんが私を振ったことを後悔するくらい…ううん…いつか、再会したとき、そんなこともあったね、お互い幸せになったねと、笑顔でまた会えるように、私も前だけを見て歩いていきます!」
美咲の手紙を読み終えた若菜は、美咲の幸せを願いつつ、それをポケットにしまった。そして、白衣を翻し、いつものように相談室へ向かっていった。