インタラクティヴ | フロッグ

インタラクティヴ

Twitterが自らの生活の中に習慣として根付こうとしていることが分かった時の、わくわく感、多幸感は今でも何となく覚えている。Twitterをコンスタントに使うようになって4年が過ぎた今は、ちょっとマンネリかなと思いつつ、でも面白いこともあるなと、より日常となったことが伺える冷静な姿勢で付き合い続けている。

特定のアカウントを相手にした1対1の目を離せないやりとりってのもないことはないが、基本的に独白と、ゆるやかな1対nが、安全を約束された手放し運転とまではいかなくとも、ヨットの上で寝転んで空を見上げながら漂っているような気ままな時間を与えてくれるものだ。さながらヨット部ならぬインタラクティ部だ。

ブロック崩しのような、あるいはピンボールのようなインタラクティヴもいいが、長続きはしないように思える。だから、それらのゲームは、ゲームオーバー以外だと休憩をポーズボタンではさんだり、クリアして終わりにしたりする。ゲームである以上、クリアするという明確な目的が設けられている。この目的以外に価値を見出しても、ゲーム内では評価されない。クリアに対するモチベーションが薄れてくると、つまらなくなる。

こうして、インタラクティヴにも種類があることを、Twitterは再認識させてくれる。そして、この心地よいインタラクティヴを実は既に子供の頃に求めていたことに気付き始める。

小学校高学年の頃、Twitterに覚えたのと同じような多幸感を持って熱中したものがあった。それは複数の子供間で同時多発的に起こった、主には紙と鉛筆 (サイコロとしても使用)を使って自作されたオリジナルゲームの数々だった。余程うれしかったのだろう、肝心の内容は殆ど覚えていないものの「すごいものが出来た」という当時の興奮や、それから数年後の「あの頃のゲームって実はすごいレベルだったんじゃない?」という回顧が今でも記憶に残っている。

これらのゲームだが、お分かりのようにどのような内容であっても、ゲームを進行させるものは、鉛筆で出来たサイコロである。サイコロの数字の目によって、互いの関係が変化していく。それは、紙の上に用意されたコマの中身に従う、いわば「人生ゲーム」というか双六と全く同じ原理に基づいている。それでも、このコマの中身の違いが、双六であっても双六でない、シューティングゲーム然とした感覚を与えることがあった。

クラスの男子の大半が夢中になってゲーム作りに勤しんでいたように記憶している。それはそれで今でもすごいことだと思う。

ただ、そんなに時間が経たないうちに問題というか願望が芽生えることになった。それはサイコロを使う限り、誰かがサイコロを振って1つの進行を追えた後、次の相手がサイコロを振る、この規則性からは逃れられないという問題であった。つまり、どうにかインタラクティヴな動きを実現したいという願望であった(反論として、同時にサイコロを振ることは出来るというものがある。でも、同時にサイコロを振るということが共通認識となっていることがもうインタラクティヴではない。あくまでサイコロを進行の為のエンジンとするなら、サイコロを相手がいつ振るか、振ったかが分からなくてようやくインタラクティヴだといえる)。

この問題に対し、乱数表のようなものを別に用意し、該当のコマにおいてはその乱数表に従って、1つのサイコロの目で異なるプレーヤー同士の進行を制御するといった方法も採った。

確かにこの方法を使えば、予測不可能な動きを実現出来たが、面白くなかった。面白くないという問題より大きい問題はない。それもそうだ、そんな方法の下では、自分達の意志を働かせることが出来ないのだから。

そこには、誰かがAとなったから、例えサイコロの目という偶然に身を任せるにせよ、Bにしたいという意志がない。やがて、オリジナル・ゲームは、僕の中でRPG小説形式へと移り変わり、そして、2作品程を完成させた後、いったんその制作を終えることになった。ゲームを面白くするためにはストーリーが大切なことは言うまでもないが、その創作の労力の前にファミコンやゲームセンターを選んだといったところだろう(何だか最近のスマホ依存にも似た話だ)。

インタラクティヴとは何か?何を相手に据えるのか?

会話はインタラクティヴだと思う。

その頃、父が「井戸端会議のような雑談が一番時間を早く過ごさせる。無駄な時間だ。」と言っていたが、私に対する警句であると同時に、一般には時間を忘れるほど夢中になれる、会話という行為に内在する優れたインタラクティヴ性が見出せるだろう。人はかくも楽な時間に乗っかっていたいのか?とも思うのだが。

さらに時間を遡ってみる。幼稚園から小学校低学年の頃にかけて「当たりバー」という30円の当たりつきアイス(氷菓)が身近なものとしてあった。これがその名の通り、覚えているだけでも、とにかくよく当たった。それだけに、当たらないと腹が立っていたほどだ。

ある日、ごく自然に僕がしたことは、お店のアイス専用冷蔵庫の中に収納されている数十本の当たりバーを、鯛焼きのように同じ向きに並べパッケージを観察することだった。子供なりに、当たりのパッケージとそうでないものとは製造ラインが別、あるいは店舗側が区別出来るようにといった理由で、何らかの違いが見出せる、あるいは設けられていると考えてのことだった。

これが実によく当たった。7本位連続で当たって、本当に腹にも当たるぞということで、明日当たりの引き換えに行こうと当たりの焼印の入ったスティックを炊事場のコップに入れていたところ、いつの間にかなくなってようやく落ち着いたくらいだ。

この当てるという行為もまたインタラクティヴだったのではと思う。

さらにその前からの話だ。僕の祖母は毎朝毎晩、畑に出て様々な作物を育て続けた。これもインタラクティヴでなくて何であろうか。

インタラクティヴというのは、期待を伴うものなんだと思う。つまり、続けるためのものなんだと思う。

あ、交互にやりとりしている場合でも、そこに想像を働かせれば(想像を働かすというのもまた期待であり続けるということだろう)、その対象をどの期間で捉えるかで、ほぼ全てインタラクティヴに変わるじゃないか?!