猫にかつお節、人に節猫 | フロッグ

猫にかつお節、人に節猫

猫好きの人が多い。何をそんな当たり前をと言われるかもしれない。いつの間にかという点では、整体院の増加に似ていなくもない。そう思うと、猫好きが多い状態は、何となくではなく何らかの理由の介在によって、
拡大しているのだろうという仮説が浮かんでくる。続いて、そもそも猫好きには、「猫が好き」と口にしたり聞かれたら答えられる人ばかりではなく、潜在意識に上りつつある「もうすぐ猫が好きと自覚する」予備軍も
含まれていると想像し始める。こうなれば時間の問題というわけだ。かくいう私も例外ではなく、数年前、明白に犬好きであることに加えて、いつの間にか猫を好きになっていることに気付いた。かくして、猫好きの雰囲気が僕を常に覆っているのだ。

だが、雰囲気ということで、時代の気分のように捉え始めて「猫とは何か?」と考えることはちょっと待ってみたい。ここではあくまで「猫好きとは何か?」から考えたい。それには、猫好きに対して覚える印象を洗い出す必要があるだろう。

直ぐに「優しい」「平和」「子供っぽい」「意外」等、色々な印象を挙げることが出来る。これらを一括りにして気付くのは大雑把には「好意的な印象」という共通項だ。その共通項に多くの印象が収斂されていくのは、平凡でつまらなさも感じてくる。だから、好意的な印象があるということは、その逆もあるだろうということで、私はむしろこちらに俄然興味を覚えている。

先程、私自身も猫好きだと表明したわけだが、それにも関わらず、猫好きの他者を見て「腹立たしい」という印象を覚えることがあるのだ。これはあきらかに好意的の逆だ。

なぜ腹立たしいかと言うと、例えば注意を喚起し反省を促しているような日常の場面にあって、「猫ちゃん・・・」と言うセリフ(勿論実際に口には出ない)と共に、あっという間に自分の部屋を往来の中に築き上げる、そんな忍者のような技術を持った人が増えていると思うからだ。

「猫好きとは、社会との遮断装置のボタンをクリックすること、その行為を好みがちな雰囲気」とでも言い換えられるだろうか。猫に鈴を付ける一方で、猫というボタンをそこらじゅうに設置されまくっているんじゃないか?

もちろん、実際の猫というものはとても可愛い。

猫にかつお節、それは愛情でもあろうが、ペットとして所有出来るという上位の目線でもあるのならいったん猫を外的存在としてもう一度突き放して眺めてみるのも良いだろう。

猫にかつお節、人に節猫、愛情は保ったまま、ぐっと我慢することも必要な時代ではなかろうか。