ドラッカーの言葉や率直でかつ誠実である。しかも人間の声のもつ独特の質感さえ感じる。訳書で読んでいるので翻訳がよいのかもしれない。経営思想家として不動の地位を得ている人物の声ともなると、構えて挑まざるを得なかったが、意外に沁みるのは早い。が、シンプルであるがゆえに実践は難しい。
「貢献することに集中せよ」。彼はそう言う。常に迷いながら自身の道を歩く僕にとっては、そういえば人のために何ができるのか、などという発想がここのところなかったな、と思い起こさせてくれた言葉だった。そうか、この国に何ができるのであろう。そもそも、自分が生きている社会が今どんなことになっているのだろう。そんなことを考えながら有楽町の三省堂の店内を歩いていたら飛び込んできたのがこの言葉、「日本人」。
橘玲という名前は以前『マネー・ロンダリング』という書籍で見たことがあったから、割と金融や資産運用などに関する本が多いと思っていたが、この本は日本論・日本人論である。パラパラとページをめくると各章の最後に参考書籍が引用されているが、非常にアカデミック且つ幅広いものが掲載されている。これは読みごたえがありそうだと手に取り買って帰った次第である。
愛国心や権力への意識不足がまず主張されるが、これに限らず本の中で指摘されている日本人像がいちいち自身に当てはまるから驚いた。アマゾンのブックレビューでは理論が即興的すぎるという声もあったが、僕自身はこれだけの即興性でテンポよく理路を展開されると小気味よく感じる。
政治空間というベタベタの空間に対して、グローバリズムは貨幣経済空間を拡大させる。しかも、そこにある正義は平等であることがよしとされるが、それは結果を平等にさせることではなく、機会を平等にするという考え方であり、これが筆者のグローバリゼーション=リベラルデモクラシーという構図につながっていく。日本人はそんな中で、絆やムラを意識した政治空間に生きてきたとされてきたが、筆者はそこに異を唱える。世間といった空気を大切にしてきたのではなく、いかにして自身に利のある生き方をするのか、すなわちいかに世俗的に生きるかというのが日本人のパーソナリティとされる。したがって、土地や血族といったものでなく、自身に都合のよいつながりが日本人の政治空間を作り出す。だからこそ有数の一人暮らし国であり、核家族の国なのである。
筆者からすれば、戦前から戦後まで一貫して日本人は世俗的であった。一方で、国政に関しては、責任をとることと権限を持つことがばらばらになってしまい、何かが起きたときに責任の所在が不明瞭になった。そこで「無限責任」という究極の無責任社会になっていたと主張する。
この日本において筆者が今後の生き方として提案しているのは、この日本という国の「他者」になることだという。日本という国は他者がいないことでグローバリゼーションに乗り切れずにいる。他者となることで得られる権限を行使して、自身の責任において行動する人間がいないということである。自身がその一人になって働きかけることが、本当の意味でのリベラルな世界への糸口なのではないかと言う。
僕は正義論なんてものはわからないし、この本を読んだからと言って明日から何をやるかが明確に見えたわけではない。ただほんの少し、前よりも誰かに貢献をしたいという気持ちにはなった。「他者」というものになってみてもよい気がした。確かに僕は世俗的だ。興味のあることとないこともはっきりしていて、自身に関係するかどうかで積極性がかなり左右される。そんな僕だからこそ、自身の興味があって、強みが生かせて、何か社会に貢献できることがあるのなら、それを行う喜びに勝るものはないのかもしれない。
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