開発の現場になれるので精一杯だった8月・・・

非常に忙しくてあっという間に過ぎた9月・・・

10月 再びチームを移動してJAVAのチームへ

サーブレットも知らない自分にとっては非常につらい日々・・・

休みもずーっと勉強 それでもまだぜんぜん見えてこない。


耐えるしかない。息抜きができない。耐えて勉強するしかない。


いつか息抜きできる日は来るのでしょうか?

無事に年末をむかえられるのでしょうか??


まったくわかりません。。。。。。。  今の心境 バカつら!!

新しい現場に来て1週間・・・

成果は・・・・・


なかなか回りのメンバーとのコミュニケーションがうまく取れない。


仕事がぜんぜんはかどらないし、現場での立場もなくなってきている。


分からないことが多すぎる。

聞かなければ絶対にわからない。


聞いていくしかない。うざがられても聞いて進めていくしかない。


できなければ撤退するしかない。


明日は絶対にいろいろ聞こう! 

自身を持って!できるはずだ! がんば!!

この1週間・・・

  土曜日 フットサルリーグ第2節 勝たなければいけないのに2引き分け

  日曜日 前日の試合で首をひねってかなり痛む、結局全治1週間・・・

  月曜日 期待していたWCUP初戦オーストラリア戦 まさか! まさかの逆転負け!言葉も出ない・・・

  火曜日 ソフトウェア開発技術者試験不合格 あまり期待はしていなかったがショック!

  木曜日 同期よりソフ開合格の報告を受ける 何気にショック!

  日曜日 WCUP弟2戦クロアチア戦 日本検討むなしく0-0ドロー 決勝トーナメント可能性ほぼなくなる

  月曜日 LPIC202 高田馬場にて受験 500点で合格だが420点で不合格


はっきりいってソフ開が一番残念だったが、すごく憂鬱な1週間だった!


よかった事 

  フットサル第2戦にて一応ベスト4に選出された!

  LPIC202 のデータを収集できた!

  友達からやさしいメールをもらった!素直にうれしい。

  家族がやさしかった!


こんなところで終わったりする自分じゃないと思う。

給料あまり上がらなそうで今はすごくつらい気分だが前を向いてがんばりたい!


今はどん底・・・  必ず復活してやる  必ず!! 


まずは1週間後に 202 のリベンジだ

どんな結果になろうとも1週間・納得のいく準備をしよう!!


くよくよしていても仕方ない 何もない 前を向くしかない  

俺ならできるはず  自分にガンバレ!!!



  

  

今日は朝から森下でフットサル。


最近こてんぱんに負ける試合が続いていたが、今日はかなりのびのびプレーすることができて、かなり気持ちよかった。


最近運用の方の仕事には完全に慣れたが、物足りなさと、焦りが出てきた。

上司・営業との交渉を続けどうやら7月末に現場を異動することになりそう!! 


ようやくですがそれまでにやれることをやらなければと、これまた焦る。


地道に努力を継続していく!!


23日クリスマス三連休初日、午前2時・・・


その日の夜勤も暇で

永原さんとは交代で寝ようかという話をしたりしながら、

自分はちょうど食事を始めようとしていました。


はじめにジョブアベンドのエラーが出て、ほぼ同時にアプリエラー

永原さんがAMSに電話していると どんどんエラーが出てきました。


そこからはいろいろな人に電話し、状況を説明し、

たくさんの電話を受け、状況を説明し 混乱したしすごく忙しかった


一時間以内にSEの人たちも皆起きて対応を開始しました

プロジェクトマネージャーも5時前に駆けつけて対応してくれました。


その喧騒の中・・正直自分はあせったり的確な判断が鈍り、

満足なプレーができなかったと思う


永原さんに頼りすぎてしまったと思う、このような状況では2人

お互いが率先するくらいの気持ちがないと、いけないと強く感じた。


FAX送信が15分以内にしなければならないところ50分もかかってしまったのも、

銀行様への障害状況の報告が、発生2時間後くらいになってしまったのも、

SEの責任ももちろんあると思うが、自分にも責任はあると思う。。。


力不足をかんじました。


後日運用チームのリーダー及びサブリーダーに

今回の対応は まったく問題ない、優良対応だと言ってもらいました。


それはうれしかったですが、反省しければならない点があったことは確かです。


総括して、今回の障害対応を経験できたことは非常に良かったと思う

経験こそが力になるし、必ず生かしていかなければと感じる

永原さんと一緒の時に起きたこともラッキーだった。


貴重な経験!  経験こそが力になる。 力にしよう!


相変わらず夜勤と土日勤務と、たまにの平日昼勤です。。


11月末に上司と営業担当の人に現場の配置換えの要望を出しました

配属されてから2ヶ月しかたっていないので、結構早い決断でした。



リスクもありますが、面接に行かないというのも合わせて

どうせならインパクトを持ってもらおうと思いました。


一時は上司とも営業担当とも、同僚ともコミュニケーションがうまくいかず、

どうなることかと心配しましたが、その後のフォローもあり、

上司や部長の評価は悪くなくひとまず成功だったと評価します


営業の人とはこの件で1時間話し合いましたが、

意見がまったくの平行線です。今後も粘り強く交渉します。


少しずつ、少しずつ進んでいると感じます。

停滞するわけにはいかない。


長い目みたら動いていくしかないのですから。


この現場に来て良かったこと

それは永原さんとコンビで仕事が出来たことかな?


仕事の姿勢でも学ぶことが多いし、

励ましあって一緒にがんばっていこうと思える。

仲間? とにかくお互いいい刺激になっています。


今日はLPIC101の試験を受験し合格できました

ずいぶん時間がかかってしまいましたが、

手を緩めずに102の早期取得のため、どんどん勉強します。


いまは勉強が仕事! 勉強が生命線!



この1週間で4日間はじめて夜勤をしました

かなり消耗した


昼の時間が無駄になってしまうので時間の効率、

睡眠の効率も悪いと感じる

それ以上に長期間続けると体調も悪くなっていくという不安がある



本日の朝に運用していくプロジェクトのサービスがスタートしました

サービスイン!!


すぐに様々な障害が発生して、ばたばたした

障害の記録をとってDBに貼り付ける作業をこなした・・・

SEたちはくす玉を割ったりしてこれまでの努力をねぎらっていた

うらやましかった



この1週間および本日で確信したことがある


「この現場は一刻も早く出て、SEとしての経験を積んでいかなければならない!」


妥協すればするほど自分の競争力は落ちていき、

どうしようもなくなっていくだろう


・・・とりあえずは資格が重要となる

短期での現場変更はリスクも伴う


会社を辞めることになるかもしれない・・

その際はそれでも認められる資格・競争力が必要不可欠だ・・


尊敬するSteve Jobs の言葉

  「他人のための人生は絶対に生きるな。そのためには絶対に自分のやりたいことを仕事にしなければならない!!」


決断のための準備をしなくてはならない

やるしかない。

IBM に通い始めて約1ヶ月が経ちました

行く前に抱えていた不安もすこしづつ解消されてきたかな・・


チームのメンバーはいい人が多い

周りのメンバーも質の高い人が多くてわくわくする

IBMの社員はさすが!と憧れを感じさせてくれる!



当初はまったく分からなかった用語や、仕事内容も

少しずつ分かるようになってきた

テスターの仕事やTWSを教えていただいて少し分かるようになった



本格的な深夜作業が来週から始まる

不安はもちろんある。  孤独もある。


この二つを乗り越える近道。 一生懸命に気持ちよく仕事をして、

自分で自分の居場所を作っていくしかないと思う!


勉強と営業。この2本柱で手ごたえは少しずつある。

まだまだ知識はぜんぜんたりないので貪欲にどんどん吸収していきたい。

今はそのチャンスです!!


(プライベート近況)

・フットサルで最近よいプレーできず

・かやさんと柏で会食、DBAⅠのノートを返してもらい情報交換

・テンダとは疎遠に

・先週のテンダのミーティング飲み会で嶋口取締役が、自分の評価の勘違いをほぼ認めた!! 活気的だと思う

・IBMの職場では少しずつ自分をアピール

・平川君とはだんだんと距離が・・

・TWSへのかすかな期待

・縞のワイシャツを4枚購入、衣類強化

・誕生日メールから3週間、まっちーからメールが帰ってきた

 もし会えることになったら2年ぶりになる

 まだまだどうなるかわからないけど、のんびり進めたい。


こんなとこです。明日からまたがんばろう!

Steve Jobs のスピーチ 自分もすばらしいと感じました。
記録に残しておきたいので渋谷で働く女社長さん経由で転載します。
全体にすばらしい、見習いたいです!!  
Stay Hungry. Stay Foolish!!  実践すべし!!
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遅ればせながら、とむさとうさんのHPの全文を転載させていただきます。
進路や生き方に指針を与えてくれる力強いスピーチだと思います。
感動、というと安っぽいですが、たいへん考えることの多い内容に思います。
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ジョブズの卒業祝賀スピーチ
(2005年6月12日、スタンフォード大学)

 PART 1 BIRTH

 ありがとう。世界有数の最高学府を卒業される皆さんと、本日こうして晴れの門出に同席でき大変光栄です。実を言うと私は大学を出たことがないので、これが今までで最も大学卒業に近い経験ということになります。

 本日は皆さんに私自身の人生から得たストーリーを3つ紹介します。それだけです。どうってことないですよね、たった3つです。最初の話は、点と点を繋ぐというお話です。

 私はリード大学を半年で退学しました。が、本当にやめてしまうまで18ヶ月かそこらはまだ大学に居残って授業を聴講していました。じゃあ、なぜ辞めたんだ?ということになるんですけども、それは私が生まれる前の話に遡ります。
 私の生みの母親は若い未婚の院生で、私のことは生まれたらすぐ養子に出すと決めていました。育ての親は大卒でなくては、そう彼女は固く思い定めていたので、ある弁護士の夫婦が出産と同時に私を養子として引き取ることで手筈はすべて整っていたんですね。ところがいざ私がポンと出てしまうと最後のギリギリの土壇場になってやっぱり女の子が欲しいということになってしまった。で、養子縁組待ちのリストに名前が載っていた今の両親のところに夜も遅い時間に電話が行ったんです。「予定外の男の赤ちゃんが生まれてしまったんですけど、欲しいですか?」。彼らは「もちろん」と答えました。
 しかし、これは生みの母親も後で知ったことなんですが、二人のうち母親の方は大学なんか一度だって出ていないし父親に至っては高校もロクに出ていないわけです。そうと知った生みの母親は養子縁組の最終書類にサインを拒みました。そうして何ヶ月かが経って今の親が将来私を大学に行かせると約束したので、さすがの母親も態度を和らげた、といういきさつがありました。

               ◆◇◆

 PART 2 COLLEGE DROP-OUT

 こうして私の人生はスタートしました。やがて17年後、私は本当に大学に入るわけなんだけど、何も考えずにスタンフォード並みに学費の高いカレッジを選んでしまったもんだから労働者階級の親の稼ぎはすべて大学の学費に消えていくんですね。そうして6ヶ月も過ぎた頃には、私はもうそこに何の価値も見出せなくなっていた。自分が人生で何がやりたいのか私には全く分からなかったし、それを見つける手助けをどう大学がしてくれるのかも全く分からない。なのに自分はここにいて、親が生涯かけて貯めた金を残らず使い果たしている。だから退学を決めた。全てのことはうまく行くと信じてね。
 そりゃ当時はかなり怖かったですよ。ただ、今こうして振り返ってみると、あれは人生最良の決断だったと思えます。だって退学した瞬間から興味のない必修科目はもう採る必要がないから、そういうのは止めてしまって、その分もっともっと面白そうなクラスを聴講しにいけるんですからね。

 夢物語とは無縁の暮らしでした。寮に自分の持ち部屋がないから夜は友達の部屋の床に寝泊りさせてもらってたし、コーラの瓶を店に返すと5セント玉がもらえるんだけど、あれを貯めて食費に充てたりね。日曜の夜はいつも7マイル(11.2km)歩いて街を抜けると、ハーレクリシュナ寺院でやっとまともなメシにありつける、これが無茶苦茶旨くてね。
 しかし、こうして自分の興味と直感の赴くまま当時身につけたことの多くは、あとになって値札がつけられないぐらい価値のあるものだって分かってきたんだね。

 ひとつ具体的な話をしてみましょう。

               ◆◇◆

 PART 3 CONNECTING DOTS

 リード大学は、当時としてはおそらく国内最高水準のカリグラフィ教育を提供する大学でした。キャンパスのそれこそ至るところ、ポスター1枚から戸棚のひとつひとつに貼るラベルの1枚1枚まで美しい手書きのカリグラフィ(飾り文字)が施されていました。私は退学した身。もう普通のクラスには出なくていい。そこでとりあえずカリグラフィのクラスを採って、どうやったらそれができるのか勉強してみることに決めたんです。
 セリフをやってサンセリフの書体もやって、あとは活字の組み合わせに応じて字間を調整する手法を学んだり、素晴らしいフォントを実現するためには何が必要かを学んだり。それは美しく、歴史があり、科学では判別できない微妙なアートの要素を持つ世界で、いざ始めてみると私はすっかり夢中になってしまったんですね。

 こういったことは、どれも生きていく上で何ら実践の役に立ちそうのないものばかりです。だけど、それから10年経って最初のマッキントッシュ・コンピュータを設計する段になって、この時の経験が丸ごと私の中に蘇ってきたんですね。で、僕たちはその全てをマックの設計に組み込んだ。そうして完成したのは、美しいフォント機能を備えた世界初のコンピュータでした。
 もし私が大学であのコースひとつ寄り道していなかったら、マックには複数書体も字間調整フォントも入っていなかっただろうし、ウィンドウズはマックの単なるパクりに過ぎないので、パソコン全体で見回してもそうした機能を備えたパソコンは地上に1台として存在しなかったことになります。

 もし私がドロップアウト(退学)していなかったら、
 あのカリグラフィのクラスにはドロップイン(寄り道)していなかった。
 そして、パソコンには今あるような素晴らしいフォントが搭載されていなかった。

 もちろん大学にいた頃の私には、まだそんな先々のことまで読んで点と点を繋げてみることなんてできませんでしたよ。だけど10年後振り返ってみると、これほどまたハッキリクッキリ見えることもないわけで、そこなんだよね。もう一度言います。未来に先回りして点と点を繋げて見ることはできない、君たちにできるのは過去を振り返って繋げることだけなんだ。だからこそバラバラの点であっても将来それが何らかのかたちで必ず繋がっていくと信じなくてはならない。自分の根性、運命、人生、カルマ…何でもいい、とにかく信じること。点と点が自分の歩んでいく道の途上のどこかで必ずひとつに繋がっていく、そう信じることで君たちは確信を持って己の心の赴くまま生きていくことができる。結果、人と違う道を行くことになってもそれは同じ。信じることで全てのことは、間違いなく変わるんです。

               ◆◇◆

 PART 4 FIRED FROM APPLE

 2番目の話は、愛と敗北にまつわるお話です。
 私は幸運でした。自分が何をしたいのか、人生の早い段階で見つけることができた。実家のガレージでウォズとアップルを始めたのは、私が二十歳の時でした。がむしゃらに働いて10年後、アップルはガレージの我々たった二人の会社から従業員4千人以上の20億ドル企業になりました。そうして自分たちが出しうる最高の作品、マッキントッシュを発表してたった1年後、30回目の誕生日を迎えたその矢先に私は会社を、クビになったんです。
 自分が始めた会社だろ?どうしたらクビになるんだ?と思われるかもしれませんが、要するにこういうことです。アップルが大きくなったので私の右腕として会社を動かせる非常に有能な人間を雇った。そして最初の1年かそこらはうまく行った。けど互いの将来ビジョンにやがて亀裂が生じ始め、最後は物別れに終わってしまった。いざ決裂する段階になって取締役会議が彼に味方したので、齢30にして会社を追い出されたと、そういうことです。しかも私が会社を放逐されたことは当時大分騒がれたので、世の中の誰もが知っていた。
 自分が社会人生命の全てをかけて打ち込んできたものが消えたんですから、私はもうズタズタでした。数ヶ月はどうしたらいいのか本当に分からなかった。自分のせいで前の世代から受け継いだ起業家たちの業績が地に落ちた、自分は自分に渡されたバトンを落としてしまったんだ、そう感じました。このように最悪のかたちで全てを台無しにしてしまったことを詫びようと、デイヴィッド・パッカードとボブ・ノイスにも会いました。知る人ぞ知る著名な落伍者となったことで一時はシリコンヴァレーを離れることも考えたほどです。
 ところが、そうこうしているうちに少しずつ私の中で何かが見え始めてきたんです。私はまだ自分のやった仕事が好きでした。アップルでのイザコザはその気持ちをいささかも変えなかった。振られても、まだ好きなんですね。だからもう一度、一から出直してみることに決めたんです。

 その時は分からなかったのですが、やがてアップルをクビになったことは自分の人生最良の出来事だったのだ、ということが分かってきました。成功者であることの重み、それがビギナーであることの軽さに代わった。そして、あらゆる物事に対して前ほど自信も持てなくなった代わりに、自由になれたことで私はまた一つ、自分の人生で最もクリエイティブな時代の絶頂期に足を踏み出すことができたんですね。
 それに続く5年のうちに私はNeXTという会社を始め、ピクサーという会社を作り、素晴らしい女性と恋に落ち、彼女は私の妻になりました。
 ピクサーはやがてコンピュータ・アニメーションによる世界初の映画「トイ・ストーリー」を創り、今では世界で最も成功しているアニメーション・スタジオです。

 思いがけない方向に物事が運び、NeXTはアップルが買収し、私はアップルに復帰。NeXTで開発した技術は現在アップルが進める企業再生努力の中心にあります。ロレーヌと私は一緒に素晴らしい家庭を築いてきました。

 アップルをクビになっていなかったらこうした事は何ひとつ起こらなかった、私にはそう断言できます。そりゃひどい味の薬でしたよ。でも患者にはそれが必要なんだろうね。人生には時としてレンガで頭をぶん殴られるようなひどいことも起こるものなのです。だけど、信念を放り投げちゃいけない。私が挫けずにやってこれたのはただ一つ、自分のやっている仕事が好きだという、その気持ちがあったからです。皆さんも自分がやって好きなことを見つけなきゃいけない。それは仕事も恋愛も根本は同じで、君たちもこれから仕事が人生の大きなパートを占めていくだろうけど自分が本当に心の底から満足を得たいなら進む道はただ一つ、自分が素晴しいと信じる仕事をやる、それしかない。そして素晴らしい仕事をしたいと思うなら進むべき道はただ
一つ、好きなことを仕事にすることなんですね。まだ見つかってないなら探し続ければいい。落ち着いてしまっちゃ駄目です。心の問題と一緒でそういうのは見つかるとすぐピンとくるものだし、素晴らしい恋愛と同じで年を重ねるごとにどんどんどんどん良くなっていく。だから探し続けること。落ち着いてしまってはいけない。

               ◆◇◆

 PART 5 ABOUT DEATH

 3つ目は、死に関するお話です。
 私は17の時、こんなような言葉をどこかで読みました。確かこうです。
「来る日も来る日もこれが人生最後の日と思って生きるとしよう。そうすればいずれ必ず、間違いなくその通りになる日がくるだろう」。それは私にとって強烈な印象を与える言葉でした。そしてそれから現在に至るまで33年間、私は毎朝鏡を見て自分にこう問い掛けるのを日課としてきました。「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やる予定のことを私は本当にやりたいだろうか?」。それに対する答えが“NO”の日が幾日も続くと、そろそろ何かを変える必要があるなと、そう悟るわけです。
 自分が死と隣り合わせにあることを忘れずに思うこと。これは私がこれまで人生を左右する重大な選択を迫られた時には常に、決断を下す最も大きな手掛かりとなってくれました。何故なら、ありとあらゆる物事はほとんど全て…外部からの期待の全て、己のプライドの全て、屈辱や挫折に対する恐怖の全て…こういったものは我々が死んだ瞬間に全て、きれいサッパリ消え去っていく以外ないものだからです。そして後に残されるのは本当に大事なことだけ。自分もいつかは死ぬ。そのことを思い起こせば自分が何か失ってしまうんじゃないかという思考の落とし穴は回避できるし、これは私の知る限り最善の防御策です。
 君たちはもう素っ裸なんです。自分の心の赴くまま生きてならない理由など、何一つない。

               ◆◇◆

PART 6 DIAGNOSED WITH CANCER

 今から1年ほど前、私は癌と診断されました。 朝の7時半にスキャンを受けたところ、私のすい臓にクッキリと腫瘍が映っていたんですね。私はその時まで、すい臓が何かも知らなかった。
 医師たちは私に言いました。これは治療不能な癌の種別である、ほぼ断定していいと。生きて3ヶ月から6ヶ月、それ以上の寿命は望めないだろう、と。主治医は家に帰って仕事を片付けるよう、私に助言しました。これは医師の世界では「死に支度をしろ」という意味のコード(符牒)です。
 それはつまり、子どもたちに今後10年の間に言っておきたいことがあるのなら思いつく限り全て、なんとか今のうちに伝えておけ、ということです。たった数ヶ月でね。それはつまり自分の家族がなるべく楽な気持ちで対処できるよう万事しっかりケリをつけろ、ということです。それはつまり、さよならを告げる、ということです。

 私はその診断結果を丸1日抱えて過ごしました。そしてその日の夕方遅く、バイオプシー(生検)を受け、喉から内視鏡を突っ込んで中を診てもらったんですね。内視鏡は胃を通って腸内に入り、そこから医師たちはすい臓に針で穴を開け腫瘍の細胞を幾つか採取しました。私は鎮静剤を服用していたのでよく分からなかったんですが、その場に立ち会った妻から後で聞いた話によると、顕微鏡を覗いた医師が私の細胞を見た途端、急に泣き出したんだそうです。何故ならそれは、すい臓癌としては極めて稀な形状の腫瘍で、手術で直せる、そう分かったからなんです。こうして私は手術を受け、ありがたいことに今も元気です。

 これは私がこれまで生きてきた中で最も、死に際に近づいた経験ということになります。この先何十年かは、これ以上近い経験はないものと願いたいですけどね。

 以前の私にとって死は、意識すると役に立つことは立つんだけど純粋に頭の中の概念に過ぎませんでした。でも、あれを経験した今だから前より多少は確信を持って君たちに言えることなんだが、誰も死にたい人なんていないんだよね。天国に行きたいと願う人ですら、まさかそこに行くために死にたいとは思わない。にも関わらず死は我々みんなが共有する終着点なんだ。かつてそこから逃れられた人は誰一人としていない。そしてそれは、そうあるべきことだから、そういうことになっているんですよ。何故と言うなら、死はおそらく生が生んだ唯一無比の、最高の発明品だからです。それは生のチェンジエージェント、要するに古きものを一掃して新しきものに道筋を作っていく働きのあるものなんです。今この瞬間、新しきものと言ったらそれは他ならぬ君たちのことだ。しかしいつか遠くない将来、その君たちもだんだん古きものになっていって一掃される日が来る。とてもドラマチックな言い草で済まんけど、でもそれが紛れもない真実なんです。
 君たちの時間は限られている。だから自分以外の他の誰かの人生を生きて無駄にする暇なんかない。ドグマという罠に、絡め取られてはいけない。それは他の人たちの考え方が生んだ結果とともに生きていくということだからね。その他大勢の意見の雑音に自分の内なる声、心、直感を掻き消されないことです。自分の内なる声、心、直感というのは、どうしたわけか君が本当になりたいことが何か、もうとっくの昔に知っているんだ。だからそれ以外のことは全て、二の次でいい。

               ◆◇◆

 PART 7 STAY HUNGRY, STAY FOOLISH

 私が若い頃、"The Whole Earth Catalogue(全地球カタログ)"というとんでもない出版物があって、同世代の間ではバイブルの一つになっていました。
 それはスチュアート・ブランドという男がここからそう遠くないメンローパークで製作したもので、彼の詩的なタッチが誌面を実に生き生きしたものに仕上げていました。時代は60年代後半。パソコンやデスクトップ印刷がまだ普及する前の話ですから、媒体は全てタイプライターとはさみ、ポラロイドカメラで作っていた。だけど、それはまるでグーグルが出る35年前の時代に遡って出されたグーグルのペーパーバック版とも言うべきもので、理想に輝き、使えるツールと偉大な概念がそれこそページの端から溢れ返っている、そんな印刷物でした。
 スチュアートと彼のチームはこの”The Whole Earth Catalogue”の発行を何度か重ね、コースを一通り走り切ってしまうと最終号を出した。それが70年代半ば。私はちょうど今の君たちと同じ年頃でした。
 最終号の背表紙には、まだ朝早い田舎道の写真が1枚ありました。君が冒険の好きなタイプならヒッチハイクの途上で一度は出会う、そんな田舎道の写真です。写真の下にはこんな言葉が書かれていました。「Stay hungry, stay foolish.(ハングリーであれ。馬鹿であれ)」。それが断筆する彼らが最後に残した、お別れのメッセージでした。「Stay hungry, stay foolish.」 それからというもの私は常に自分自身そうありたいと願い続けてきた。そして今、卒業して新たな人生に踏み出す君たちに、それを願って止みません。

Stay hungry, stay foolish.

ご清聴ありがとうございました。

the Stanford University Commencement address by
Steve Jobs
CEO, Apple Computer
CEO, Pixar Animation Studios

翻訳 市村佐登美
とむさとうのHP
スタンフォード公式URL&録画映像
http://news-service.stanford.edu/news/2005/june15/videos/51.html
http://news-service.stanford.edu/news/2005/june15/jobs-061505.html
☆とむさとうさんのブログにトラックバックしているみなさんと、共感の点と点を結びたいとトラックバックさせていただきました。ご迷惑になりましたら削除してください。また、転送・転載などはとむさとうさんのHPを必ずご参照ください。

すごく不安を感じる

すごくストレスを感じる


この数日で結構やせた

菅沢さんにも・みよチャンにも・ヒロシにも・関にもいわれた。


フィードバックのストレスのせい?

給料が安いから?

夜間作業の保守・運用の仕事に就かなくてはならないから?

キャリアアップしていけるのだろうか?

勝ち残っていけるのだろうか?



明日からIBMの保守・運用の仕事・・・ ・・・

漠然とした不安 ものすごく感じる


一歩一歩。 一歩一歩。 一歩一歩。