谷村新司さんとukkaとの"音楽は人と人との繋がり"
昨日の谷村新司さんの訃報を受けて、
ukkaのあやめちゃんともあちゃんの事を想うのです。
谷村新司さんの代表曲のひとつである「サライ」、
競作者である加山雄三さんはukkaの事務所の先輩であるももいろクローバーZの
特にしおりんは"ももクロの若大将"として若大将から大変お世話になっており、
ももクロの後輩グループであるukkaをはじめスタプラも間接的にお世話になっていると思っています。
一方、谷村新司さんはukkaやスタプラとは実は繋がりがないようで、辿っていけば実はあると感じています。
特にukkaとは。
音楽とは"人と人との繋がり"であると。
谷村新司さんがアリスで活動していた当時の事務所はヤングジャパングループ。
70年代中盤以降のアリスの大成功でヤングジャパングループは隆盛を極めますが、
やがてフォークから音楽が変化する中で、ヤングジャパングループも変化する事となります。
ヤングジャパングループが80年代中盤にアップフロントエージェンシーと変化し、
その中で手掛けたのがまだ高校生だった森高千里さんでした。
フォークミュージック中心で今までアイドルを手掛けた事がなかった事務所は試行錯誤しながらのプロモーションでした。
試行錯誤の中、ストレスで入院した経験を森高さん自身が作詞した「ストレス」(ザ・ストレス)が話題を呼び、
その後の「17才」のヒットも重なり、
1989年からの森高千里さんの時代が始まりました。
「渡良瀬橋」という至高の名曲を生み出した頃にはアイドルからシンガーへとなっていた森高さん。
「渡良瀬橋」がヒットした1993年は
加藤いづみさんや橘いずみさんをはじめ
ガールズポップブームでした。
森高千里さんの「渡良瀬橋」がヒットした翌年の1994年に
森高さんの所属事務所から「上・京・物・語」でスマッシュヒットした後輩グループがシャ乱Qでした。
「ズルい女」のミリオンセラーで、森高さんと共に事務所の売れっ子となったシャ乱Q。
年齢ではつんく♂さんの方が森高さんより年上ですが、
森高さんの方が事務所の大先輩なので「姉さん!」と森高さんを呼ぶつんく♂さんの事を思い出します。
森高さんの「私のように」がリリースされた1999年、
森高さんのご結婚/育児専念による芸能活動縮小は
アップフロントにとっては痛手でした。
一方でシャ乱Qも1998年以降諸事情でグループ活動自粛する中で、
つんく♂さんは浅ヤンのモーニング娘。のプロジェクトに結果的に専念する事となり、
そこに森高千里さんの音楽ブレーンの方々も次々と加わるようになりました。
モーニング娘。の「LOVEマシーン」を聴くと、当時の空気感が蘇ってきます。
そして当時のアイドルや後世のアイドルに影響を与えた凄い曲だなあと令和の時代に思う訳です。
「LOVEマシーン」のヒットから20数年後、
矢口真里さんとハロヲタのあやめちゃんが「火曜TheNIGHT」で共演して、
ハロヲタである事を伝えた所は
ukkaのファンとして微笑ましく想ったり。
そして「LOVEマシーン」のヒットと後藤真希さんのデビューから20数年後、
後藤真希さんの姪っ子さんがアイドル活動されている令和の時代に
もしモー娘。が存在しなかったら…と思うとukkaのファンとしてモー娘。に感謝。
音楽とは"人と人との繋がり"。
ukkaのファンとして
谷村新司さん、ありがとうございましたという想いを伝えたいです。