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「こいつぁまるであのトカゲじゃねえか!」
アヤマツ氏は僕の鞄から革財布を取り出すと、川向こうの老人を呼び止めるようなかなりの大声でそう言った。
「レシートとか、絶対に使わないポイントカードとか、全部入ってます。なかなか整理する気が起きないんですよ」
「そりゃまあ程々なら構わんけどもこんなに溜まっとるのは尋常じゃないな。革が伸びきっとる」
確かに僕の財布はなぜファスナーが壊れないのかと思うほど膨れ上がっていた。
「それに信じられんほど重いぞ。お前の足もこれが原因に違いねえ」
「たかが財布でそんなことありますかね」
「こんなボールは誰がどう見たって財布じゃねえさ。よく持ち歩けたなと思うよ。ああ、とにかく一刻も早く中身を減らしたほうがいい。俺も手伝うでい」
一時間前、僕は彼に電話を入れ、急遽自宅に来てほしいと伝えた。三十分も経たないうちにインターホンが鳴り、画面に映った寝巻きに下駄姿のアヤマツ氏は、僕が今起きたんですかと聞くと歯を磨くジェスチャーをした。起きたばかりだが歯磨きだけはやってきたということらしかった。僕は鍵を開けた。
僕が何か言うよりも先に、彼は僕の右足が短くなっていることに気がついた。朝起きたらこうなっていたんだと言うと、彼は骨盤が歪んでいる、鞄を見せてくれと言った。重いものをずっと持っているとこういう症状が出るらしい。彼は鞄をほじくり返して、重さの原因が財布にあると突き止めた。
こうして僕らのやるべきのことは明確になった。“球体トカゲ”のような財布を効率的に萎ませるため、アヤマツ氏がレシートを読み上げて、僕が捨てるかどうかを決める、というように役割を分けた。
「んじゃ次は2012年、桜山、おにぎり」
「えーっと、それは部活行く前によく買ってたんですよ。昼ごはん用。ものすごく大きくて旨いんです。懐かしいけど捨てましょう」
「当然だよ。よくもまあ六年前のおにぎりのレシートをいちいち取ってあるよね。んじゃ次は2012年、日進、アロマキャンドル」
「全く覚えてないですね」
「お、そうか。お前がアロマ買うなんて余程のことがあったと思ったのに、残念。にしても2012年のレシートばっかだな。最近のが全然ない」
「最近はもう財布に入らないからその場で捨ててるんです」
「海外のジョークみたいなオチだな。鳥肌が立ったよ。んじゃ次。2012年、足柄、ええっと、これは何だ」
「なんて書いてあるんですか」
「葬式、150万円」
「え?」
「葬式150万円、ほら、ここ」
「葬式…ですか」
「覚えてないんだとしたら怖すぎるぞ」
「いや、そもそもそんな金額、僕に払えるわけないですよ」
「確かに。足柄というのも妙だ」
「捨てましょう」
作業はちょうど十二時に終わった。財布を頭の位置まで持ってくるとようやく垂れ下がった革が床から離れるという有様だったので、ハサミと刺繍糸で元の形に戻した。アヤマツ氏は出版社と打ち合わせがあるらしく、じゃあと言って寝巻きのまま駅の方へ歩いていった。
「これで足が治るといいんだけど」
僕は独り言を言った。
窓から差し込む太陽の光はくねりくねりと形を変えながら部屋の隅々を黄色く染めていた。小さな財布を鞄に入れると僕は無性に歩きたくなり、貰い物の甜茶を詰めた水筒を鞄に放り込んだ。どこに行こうかとぼんやり考えながら持ち上げた鞄は信じられないほど軽かった。
僕は歩くことができなくなっていた。門の外に踏み出した短い右足は重さを失った僕に全く対応できず、アスファルトの上を何度も空振りした。
「こん畜生!これじゃあ立つことさえままならないじゃないか!」
背後から耳障りな音が聞こえたので振り返ると、軒下の巣で母親を待つ三十羽の燕が鳴いていた。僕は満員電車で汗を拭うサラリーマンに対して感じるのと同様の、とてつもない嫌悪感を抱き、今にも倒れそうになりながらなんとかスクランブル交差点の中心までやってきた。しかしその場所で遂に倒れてしまった。
薄く目を開けると景色が横倒しになっていた。天球の頂点にある太陽は、僕が倒れてからそれほど時間が経っていないことを表している。立ち上がって身体を伸ばすと左右の足の長さは揃っていた。
交差点の角にある茂み(郵便ポストの影になっているところ)から、球体トカゲがじっとこちらを見ていた。球体トカゲを見るのは初めてだった。目を合わせているとそいつは徐々に平べったい巨大な煎餅の形になり、次の瞬間バネのように跳んだ。丸いシルエットが太陽と重なり、日食が起こった。
「もうこれを見ることはないと思っていたよ」
太陽が動いたので空はまた青くなった。
僕はガストの誕生日クーポンの使用期間が昨日で終わっていることを思い出した。