アルカノとセレン〜2



「大丈夫か?ウリエル。ゆっくり行こう。ゆっくり

でいいからな」

「大丈夫よ、アス。ありがとう…… 」

地獄獣の爪で入れた刺青のおかげとはいえ、やはり

ミカエル以外の天使がルシフェルの聖域である地獄

界へ入る事に緊張が高まるウリエルだった。

そんな彼女を心配してか、アスタロトはずっとウリ

エルの体を支えていた。抱き寄せていた肩から、手

のひらに緊張が伝わってくる。


真っ暗で大きな口を開け獲物を待つ怪魚のように、

地獄界は二人と1頭を吸い込んでいった。

そして、ついにウリエルは暗黒地に辿り着いたのだ。

「ここが…… 」

忌まわしい記憶が甦る。

ベリアルに、初めて連れて来られた記憶。

目の前にはタールのような海原が広がり、罪人ども

が苦しみのせいでのたうち回ってるのか、あちらこ

ちらで大きな渦を作っていた。その間からは、紫色

の炎が吹き上がっている。


「アルカノは私達が来た事がわかったかしら?」

「ラス、奴の気配感じるか?」

『いえ、すみません…… 』

「あなたが謝る必要ないのよ。彼はきっと─── 」

と、その時ラスは何かの気配を感じたのか、ハッと

体を固くし身構えた。

「ラス、"あいつ"か?」

『─── 来ました!アルカノです』

アスタロトは神秘的な海上を這う紫色の炎の中、

徐々に波が盛り上がっていくのを見た。ウリエルも、

"それ"に気づいた。

「アルカノ!」

気づくとウリエルは、深淵の地獄獣の影に向かって

走り出していた。

「ウリエル!」

アスタロトが止めるのも無視し、彼女は夢中で叫び

続けた。今にも暗黒の海原に飛び込みそうな勢いだ。

「アルカノ!アルカノ!お願い、姿を見せてちょう

だい!」

と、その時だった─── 。


例の不揃いの無数の刺だらけの頭が海面から出現し、

その下からは巨大な黒真珠を思わせる二つの瞳が現

れた。

二人と1頭に、再び緊張が走る。


(なんて…… なんて美しい瞳なの)


「ウリエル、気をつけろよ。奴はあくまでも地獄獣

だ。俺にも奴が何を考えてるのかわからないからな

。慎重にな」

支えていた手のひらから、ウリエルの体が離れて行

く。少しずつだが、彼女は黒真珠の瞳に吸い込まれ

るように、地獄獣に近づいて行った。


「アルカノ、私よ。ウリエルよ。あなたに会いに来

たのよ。お願い、あなたの顔を見せてちょうだい」

暗黒の大海の地獄獣とアスタロト達とを隔てる手摺

をウリエルは握り締めると、身を乗り出し、まるで

アルカノを招き入れるかのように右手を差し出した。

そーっと…… そーっと─── 。

アスタロトは彼女に危害を加えられないか、いつで

も助けられる態勢に入った。


─── お願い!アルカノ!


『我は  あなたに会いたかった

   ウリエル殿よ    会いたかった─── 』


「聞こえる…… あなたの声が聞こえる…… 」

「ウリエル、あいつの言葉がわかるのか?」

『そんな馬鹿な!アルカノの心が読めるのはオレ達

番犬と、ルシフェル様だけのはず』


同じ地獄獣の爪で刺青を入れたはずのアスタロトに

は、アルカノの言葉が伝わらなかったのだ。

何故、天使であるウリエルには奴の言葉が分かるん

だ?

そんな夫の混乱を余所に、ウリエルはアルカノと心

を通じ合わせていく。


『ウリエル様!アルカノが!』


ラスの叫びとともに、"いにしえ"の姿をまとう地獄

獣が顔を─── いや、今度は体全体を現したのだ。

その姿はまさに漆黒のドラゴンである。

不揃いの刺があるのは頭だけで、体には鋼のような

大きな鱗がびっしりと張りつき、それはまるで鎧の

ようだ。その鱗の体からは、タールのような真っ黒

な海水が滴っている。

ワニを思わせる巨大な口からは、蛇のように先が二

股に分かれている黒々とした舌が出入りしていた。


(いつ見ても"おぞましい"奴だ…… )

さすがのラスも身を強ばらせ、その場から動けなか

った。それはアスタロトも同じ思いだった。

だが、ウリエルだけは違った。

驚く事に彼女は差し出した手をそのままに、彼を

招き入れようとしたのだ。


「ええ、私も会いたかったわ」

ウリエルは地獄界の獣王と心を通わせ始める。

「─── そう、あなたは私の歌が聞きたいのね。

あなたはラス達に聞かせていた讃美歌を聞きたいん

でしょ?」


『ああ、ウリエル殿よ……

    我に是非あなたの歌声を聞かせて欲しい

    我の為に歌って欲しい 』


紫色の炎の渦の中のアルカノは、まるでお辞儀を

するかのように、刺と鱗だらけの頭をウリエルに

向け下げた。

それを合図に、ウリエルは両手をいっぱいに広げる

と、静かに瞳を閉じた。