疑惑の羽根〜20



凶暴なる毒蜘蛛の棲み家に捕らわれた蝿の如く、

ゼフォンはサマエルが放った蛇を首に絡ませながら、

只々身動きも出来ず水晶の床に這いつくばっていた。

その様子をしばらく氷の瞳で眺めていたルシフェル

だったが、書記官に蛇を解くよう促した。


「もういい、放してあげなさい」

指示を受けたサマエルがサッと払うように右手を

動かすと、その瞬間に巻き付いていた蛇は霧のよう

に消えてしまった。

ゼフォンはようやく解放されたが、まだ恐怖で体が

硬直したままだ。

両目をギュッとつぶり、嵐の中の野良猫のように震

えている。


「ゼフォンよ、顔を上げなさい」

ルシフェルが呼び掛けるその声は、地の底から響き

渡るが如くゼフォンの全身を震わす。

地獄管理界の"帝王"から呼ばれても、ゼフォンは震え

たままだ。

「顔を上げなさい」

突如、彼の耳元でその声が囁いた。

「ひっ!」

声の主はサマエルだった。

いつの間にか彼の側に来ていたようだ。

小さく悲鳴を上げたゼフォンは、恐る恐る目を開け

顔を上げた。

目の前にはサマエルの顔があった。

右目は潰れていたが、何故かその奥からじっと見つ

められているようだ。


辺りをそろりと見渡してみる。

そこは、水晶の輝きに満ちた美しい部屋であった。

だが、部屋は氷の世界のようにゼフォンの心を何処

までも凍りつかせ、恐怖で支配しようとしていた。

かつて、マモンとその弟ドイルを尋問し刑に処した

部屋でもあった。

ルシフェルの背後には、背もたれの高い王座のよう

な椅子が鎮座している。

ゼフォンはこれから自分の身に起こる出来事を想像

し、いっそこのまま殺された方がマシなのかと思う。


「さて、質問に入るとするか」

水晶の部屋の主がそう言うと、サマエルは彼の側へ

寄り、記録する為の巻物を現し宙に浮かした。

スキンヘッドの頭に、水晶の部屋の輝きが反射して

いる。


「先程も聞いたが、お前は何を企んでいる?もし、

わたしの前で嘘を申すのなら、我が身がどうなるか

わかっておるだろうな?」


━━━ ゼフォン、言うんだ!勇気を出せ!


「どうした?お前のその口は"蝿"のように床を舐め

回すだけの為に付いているものなのか?」

灰色の瞳を光らせ、目を細めるルシフェル。


逃れられない!

震える両手を握り締め、ゼフォンは決心する。


「お願い致します!ルシフェル様!」

彼は冷たい床に、額を付けんばかりにひれ伏し懇願

した。

「僕・・・わたくしを天使に戻して下さい!」

その瞬間、水晶の部屋が一気に極寒の世界と変わっ

た。

「ご無礼を承知で申し上げます。今さらながらです

が、天界へ戻して下さい。お願い致します!お願い

します・・・」

最後は消え入りそうな声になりながらも、彼は必死

に訴えた。

余りの恐怖で顔を上げられずにいたが、ルシフェル

の"機嫌"を読み取ろうとしたゼフォンだった。


長い沈黙━━━ 。


ああ、これは夢だ。

僕は永遠の悪夢に捕らわれてしまったのか。


永遠に続くと思われた沈黙だったが、それは突如

破られた。

「お前は確か地獄管理界が創られた頃、こうわたし

に言ったな?『わたくしをどうか、あなた様の配下

に置いて下さい!何処へでも、いつまでもお供致し

ます!』と。はて?わたしの聞き違いであろうか?」


感情の無い、いや、本当は怒りに満ちていたのか。

「煩い蝿ごときが、どうしてもと懇願して来たのは

貴様の方だぞ。わたしとしてはお前のような魅力の

無い者なぞどうでも良かったのだがな」

何処までも続く冷たい響きは、徐々に水晶の空間を

震わしていく。

「ああ、一つ教えてあげよう。わたしがこの世で

一番赦せない事は、このルシフェルとの契約を途中

解除される事だ。それが、例えどのような理由があ

ろうとな」

激しい怒りが、床に額を押し付けていたゼフォンの

全身に伝わって来た。


━━━ ゼフォンよ、ルシフェル様に言うんだ!

"あの人"の為と。


「ルシフェル様、是非聞いてください!わたくしは

、ある人の為に天界へ行きたいのです!」

「・・・」

「ある人・・・愛する人の為に天使に戻して欲しい

のです!ああ・・・わたくしは何と愚かな者でしょ

うか。どうか、どうかこの愚かな奴の願いを聞いて

下さい!あなた様へ敬愛の念は永遠変わる事はない

でしょう。ですから、どうか・・・どうか、お願い

致します!」


止めどなく流れる涙。

美しい水晶の床を涙で濡らしながら、ゼフォンは

愛する者の顔を、翼を、天界の向こうに想いを馳せ

ていたのだった。