瞑想
ということばを聞いて、興味をもってから、もうずいぶん時間が経った。
最初は本を読んでためしてみたけど、すぐに雑念まみれになって、全然続かない。
数年前からは、ストレッチの先生から瞑想を教えてもらっていたけど、すぐに眠くなったりして、苦手意識が強化されてた。
そのあと、ハッピーちゃんが、瞑想をしてくれるようになった。
彼女が終わった後に必ず、「気持ちよかったー」
と言うのを聞いて、
いいな、わたしもその気持ちよさを味わってみたいな
と思うけど、
瞑想する度に
全然気持ちいいと思えないなー。
と、(今にして思えば)自分をジャッジしながらも、瞑想しなきゃと、ほぼ義務感でやってた。
そして。
この一か月ほど、パールちゃんのインナーライトジャーニーで毎朝の瞑想を続けてきた。
そしてふと気がついたのは、私が思ってる気持ちいいと、ハッピーちゃんやパールちゃんが言ってる気持ちいいが、違うんじゃないかってこと。
私がそれまで想像してたのは、身体の気持ち良さ。
例えばストレッチしてほーっとなったり、温泉に浸かった時の感じ。
瞑想すると、それが得られるのかなと思ってた。(そういう感覚が出ることもあると思う)
でも、もしかすると彼女たちが言ってるのは、それだけじゃないのかもしれない。
例えば、豊かな自然の中に身を置いたときの開放感とか、広々とした所で感じる解放感とか。
それは、身体というよりも、頭の中の話。
通常運転だと、ごちゃごちゃの頭の中が、ぽっかり空白になって、
心配やら不安やら、過去や未来のことに引っ張られる感じが無くて、
ただここにいる。
それを、気持ちいいって言ってるのかも?
わたしの気持ちいいの範囲と、彼女たちの気持ちいいの範囲が、かなり違うんじゃない?
なんだ!わたしは、色んなことにもっと気持ちよさを感じていいんだ!と思ったら、自由が広がった感覚があって、気が楽になった。
わたしは自分の気持ち良さにまで、どうやら制限をかけていたらしい。
自分がこれまでに経験したことの中だけから、気持ち良さを定義してたんだね。
その状態じゃ、未体験のことや、想像できないことを避けたくなる。
なぜなら、わたしはすごく怖がりな上に、正解を探す癖が強いから、間違うこと、出来ないことがダメ=嫌なことになるから。
そうやって、瞑想が出来ない自分をジャッジしてたから、余計に苦しかったんだ。
パールちゃんが、瞑想の後のシェアの時間で、
何度も何度も、
雑念が出てもいい。
眠くなってもいい。
深く入れなくてもいい。
オールオッケー。
と教え続けてくれたおかげで、そのジャッジが外れて、苦手意識が弱くなったんだ。
この、なんでもオッケーな感覚こそが、自分をジャッジせずに丸ごと愛するってことなんだね。
自己受容の大切さを教えてくれるハッピーちゃんやパールちゃんのことばは、何度も聞いていたはずだけど、腹落ちするって、こういうことなんだ。
体感が伴なって、初めて自分のものになる。
という、そのこと自体も、体感を重ねることで、より身についてくるように思う。
だから、地味なことでも、それをこつこつと続けた先に何かがあるって分かってるから、
もっとやってみたいと思えて、面倒くささに負けないで、出来るようになるんだと、初めて分かった気がする。
とここまで書いて、あー、ハッピーちゃんが言ってる回転遊具の例えはこれだったのかと気づいた。
そう、ハッピーちゃんは、何度も何度も頭の中だって言ってくれてたのに、わたしは回転遊具の話は具体的な行動のことだと勝手に思ってた。
例えばダンスとか、新しいことにチャレンジする時に、最初は凄くぎこちなくても、繰り返すうちに身体が覚えてくれる、みたいな感じで捉えてたけど、それだけじゃ無い。
頭の中の回転遊具を回すことこそ、一番大切なんだ。