男子高校生が、マスクホルダーをつくり、江戸川区役所に贈った。手作りなのに精巧なものという。毎日、区の職員は電話で突き上げを受け、怒声を浴びせられているから、作ったという。それを心配してのものだ。高校生へ拍手喝采!。こういう純粋な心からの優しさは、社会全体を癒すオレンジニュースである。

 

最近の日本は殺伐としている。

しかし気分が殺伐としようがしまいが、日本の経済など事実関係は変わらない。

変わらないのであれば、せめて気分だけは良い気分を選び取ろう。

国難であるが、冷静にしている方が、良い解決方法も思い浮かぶことだろう。

 

いまは公共の窓口が暴力の対象になる。区の職員個々人が悪いわけではない。職業選択として、たまたまその窓口部署にいてしまったのである。しかし、公共というだけで、怒声の対象となる。いま、こうした情勢になにか異常を感じる。

 

「和をもって、貴しとなし、忤ふことなきを宗とする」(聖徳太子、十七条憲法)

これが日本人の心であり、日本の魂の原風景である。

冷静になろう。

基本に戻ろう。

誇り高き日本とは、その精神性にある。

この美しい国は、和を輪にして紡いでいった。倭の国は和の国でもある。

人に向けていいのは、怒りの石礫ではない。ねぎらいの花たばである。

 

確かに、怒声をあびせてしまう人も、不安や不満ゆえにそうした行動をとるのであろう。それはそれで気の毒で、せめて思いやりの気持ちで包んであげなければならない。怒声を出すことは、いってみれば、口から、異物や塵芥を吐き出していることになる。そのような黒い感情を生産しつづければ、ご本人の血圧も上昇し、下手をすると脳血管も切れて、先行きはよろしくないだろう。

 

いずれにせよ、こうした殺伐とした社会状況は非生産的であり、非効率的である。自分にできるささやかなことは何か。楽しいこと、笑顔になることは何か。無邪気、純粋、清らかな気分でいられることは何か。楽しさは楽しさのネットワークを呼び起こし、明るさは明るさのネットワークを呼び起こす。

 

何度でも言おう。

ようやく街は動こうとしている。その街に感謝しよう。

 

わたしたちは、日常をいま取り戻そうとしている。

 

わたしたちは、人が行きかう朝のさわやかな時間を取り戻さなければならない。

太陽の輝くあたたかさや、ビルの窓が光り、道行く人たちを祝福する光景を。

わたしたちは、よろこばなければならない。サラリーマンさんが列をなして、会社へ向かう姿を。日本の未来をささえる人々を、称えなければならない。

今日一日、無事に働けることに感謝しなければならない。

 

紫陽花の花の蕾が大きくなり、小学生がランドセルを背負って学校へ通う風景、ママチャリを飛ばして幼稚園へ届ける母親の姿に愛をおくらなければならない。ベビーカーを押して、携帯電話を器用に操りながら、子供を送り届ける父親の姿にも。

テレワークなどのシステムが定着したとしても、そうした街の呼吸、街のリズム、街のにおいのある日常が戻ってくることを、みなが今、待っている。人が活動的に生きている街。

 

そして、しっかりと静かな気持ちで過ごしていれば、私たちの善き心に反応して、オレンジ色のニュースが次々と生まれてきて、花束のような優しさは、おそらく世界中に満ちあふれてくるに違いないのである。