平成が終わりに使づいて、令和がやってきます。

 

日本の少子高齢化社会は、ずいぶん前から言われ続けていましたが、結局社会システムの完備が伴わず、結婚そのものができる経済力がない、子供たちを育てる教育費などを考えるとその経済力もないということで、少子化を食い止めることはできませんでした。「はたらけど はたらけど 猶わが生活(くらし) 楽にならざり ぢっと働く貧困層、自戒の念も込めて、未来に対する希望の光を与えられなかったのが、手を見る」(石川啄木)が、伝統的に続いている日本の現実です。

 

教育そのものも日本の国全体がレベルダウンしているような状況です。相続税の過重による家の解体化、それに伴う家庭教育の貧困化、サービス残業による父親という父性存在の失墜、祖父母ー親世代―子世代とあって機能する大切な家の教えも、希薄化していきました。そして今や幼稚園教諭も、保育士も、小学校の先生も中学校の先生も成り手が減ってきました。

教育そのものに興味があっても、現実が伴わない。労働賃金が低いのに高潔な精神を求められる過度の不自由さ、教育しようとするとすぐに介入するモンスターペアレント、伝統主義のもつ奉仕などの過重な責任、時間単位の割には合わないストレス、休みの無さ、教育とは労働でもサービス業でもありません。次世代の国家を作る希望にあふれた人間を教えるのが教育であるのに、そこがすっかり税金と金儲け主義に走り、企業が儲けても、従業員に反映されないという奇妙な構造が出来上がってしまい、もはや企業や仕事への愛は希薄化しています。これは、海外の留学生を他の国から招いて働いていただけばよいという話ではありません。彼らも10年もたてば、この矛盾、不条理に気づくことでしょう。日本の教育の在り方に対する根本的な考え方の貧困さが招いた結果です。

 

まずは全体をよくすることを考えること。一部の人間だけが儲かるとか、楽しいのでは、社会はよくならずそのしっぺ返しは必ず自身の身に及ぶことでしょう。

 

一部動いている普通の方たちの、困った方々への愛や援助、その在り方の根元に流れている日本人独自の思いやりのこころを、トップリーダーの方たちは見直していただきたいと切に思います。WinWinは互いの存在から成り立ちます。