あき@旅するトリコニコ会

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良かったら見ていってください(^-^)

旅行と歴史が趣味です。ねそべりのにこと善子を連れて色々な所を旅する会、旅するよしにこ会主宰。

他には野球観戦(ベイスターズ推し)、2.5次元ラブライバー、ミルキアン(そらまる推し)です。


💧ハピラインふくい線に乗りますよ!
💧大聖寺駅です!
💧大聖寺城跡です!
大聖寺城の築城は鎌倉時代。戦国時代、加賀国一向一揆では拠点の1つになりました。天正3年(1575)、越前国を平定した織田信長は加賀に侵攻。加賀国を平定した信長は侵攻の8年前に破壊されていた大聖寺城の修復を柴田勝家に命じ城主に簗田広正(?〜1579)と元朝倉家家臣の堀江景忠()を配置しました。しかしその翌年、一向一揆勢が再び蜂起。広正はこれに抵抗しきれず加賀国の城は大聖寺城以外全て落とされ信長に救援を求めました。信長は勝家に救援を命じ一向一揆を鎮圧。信長は統治能力無しとして広正を罷免し代わって佐久間盛政(1554〜83)を城主としました。
北陸方面の織田軍は「越後の龍」上杉謙信との戦いに費やされ天正5年(1577)で謙信に敗れ大聖寺城も奪われるが謙信の死後、勝家の反撃で城を奪還し拝郷家嘉(1549〜83)が城主となりました。天正11年(1583)、賤ヶ岳の戦いで勝家が滅亡すると溝口秀勝(1548〜1610)、山口宗永(1545〜1600)が城主となりました。
戦後大聖寺城は前田領となり津田重久(1549〜1634)が城代となりましたが一国一城令で廃城。寛永16年(1639)、前田利治(1618〜60)を藩主とする大聖寺藩が立藩されましたが城跡は立ち入り禁止の場所とし麓に大聖寺陣屋を築きました。以後大聖寺前田家は明治維新まで存続しました(大聖寺藩は金沢藩の支藩であり石高10万石(当初7万石だったが高直しした)は陣屋主では最大規模)


馬出曲輪跡
本丸跡
熊が出るから気をつけてって看板を見てサッとしか見れなかった
山口玄蕃頭宗永公碑
山口宗永は関ヶ原合戦では西軍に味方。東軍に味方した前田利長は北陸の西軍大名を潰すべく出陣。利長は丹羽長重が籠る小松城を攻めるも城は落ちなかった。やむなく利長は一部の兵を抑えに残し南下し大聖寺城を攻撃。前田軍2万に対し山口軍はわずか500。それでも降伏勧告をはねつけた宗永は奮戦するも兵力の差は歴然でありやむなく宗永は降伏の意思を伝えました。しかし多数の損害を出された前田方はこれを無視し城内に突入。城兵は全員討ち取られ宗永と息子の修弘は自害しました。
次男の弘定は大坂の陣で戦死したが宗永の弟の宗春の子供の宗張が松平直政に仕え子孫は松江藩士となった。さらにその子孫に大東亜戦争時、第二航空戦隊を率い奮戦した「皆殺し多聞丸」山口多聞(1892〜1942)少将がいます。
贋金造りの洞穴
忠霊塔
御城印
右の家紋は上から溝口家家紋「溝口菱」、山口家家紋「檜扇の内鷹羽」、前田家家紋「加賀梅鉢」
加賀神明宮